飛山城は勝山城https://jh.irukamo.com/post-35660/同様に鬼怒川沿いにある平山城で、鎌倉時代の後期に宇都宮氏の家臣だった芳賀氏の居城で、1293年~1299年頃、宇都宮景綱の家臣 芳賀高俊にって築かれた城だと云われています。芳賀氏は益子氏(益子城https://jh.irukamo.com/mashikokojo/)と同様に『紀清両党(きせいりょうとう)』と呼ばれた、宇都宮氏の家臣団の中で精鋭武士団の両氏とされていた様で、『紀』→益子氏の本姓『紀氏』から『清』→芳賀氏の本姓『清原氏』からそぉ呼ばれていた様です!(=゚ω゚)ノ 清原氏の姓もその昔100人以上の皇族に与えられた日本史上屈指の大姓だったようで、芳賀氏も飛山城に居る間は清原姓を名乗っていたようですね。
戦国時代になると関東の動乱に例外なく芳賀氏も勝山城も巻き込まれていきます。1557年には宇都宮氏や芳賀氏を支援した常陸国の佐竹義昭が両氏を支援し宇都宮城https://jh.irukamo.com/utsunomiyajo/奪還に成功するなど、飛山城は宇都宮城奪還のための最前線基地として使われていたと考えられますね。
1590年に北条(後北条)氏を滅ぼした豊臣秀吉は、宇都宮城に入城し関東の支配体制を決定する『宇都宮仕置き』を行ったとされ、その際に豊臣秀吉は宇都宮氏に18万5千石の所領安堵を裁決した一方で、佐竹氏と宇都宮氏に『他の家臣のいらざる城は破却せよ』との命令を発したため、飛山城も『城破り』の対象とされたため破却され廃城となったようですね。
飛山城は鎌倉時代(後期)より約300年間続いた城のため、城自体の規模や機能など時代と共に大きく変化したんだと思われます。現在の飛山城跡は城域がもっとも拡大した戦国時代のもので、史跡地内の掘立柱建物5棟・竪穴建物2棟はなどもありその時期の建物を復元・整備した公園として地元の方々に愛されていました。
【飛山城】
飛山城は『宇都宮市とびやま歴史体験館』のすぐ隣にあるので探しやすいと思います(*´ω`*)



日が落ちていく・・・(´;ω;`)ウゥゥ


凄い迫力の土塁だな!!!(;゚Д゚) 確か飛山城は東西240m、南北420mの長方形の平山城なので、南北420mにこの規模の土塁がぐるりとあったってことですよね!?!?凄い!














木橋を渡ると虎口の様になっており、そこには枡形の構造物がありました!












土橋から西(鬼怒川方面)へ進んでいくと大きな門が出てきました!門の脇から城内へ侵入できました<(`^´)>




門を越えると大堀(第4号堀)が東西に延びています!
北側に城跡が固まっているのでそっちも方向に行きますが、南側は大きな曲輪(五の丸???)が広がっており、そちらに復元された古代・中期の竪穴式構造物がある様です。








大堀(第4号堀)が東西に延びているので鬼怒川方面に進んでいきちょうど中間ぐらいですかね!
曲輪も広い!!!!(+_+)




鬼怒川沿いから北方面に侵入します!!!



四ノ丸???曲輪の番号では四番目の曲輪に侵入します!











個々の曲輪も広!!!!!!!!!!!!! 鬼怒川の沈む夕日もきれいだなぁぁぁ(●^o^●)



曲輪4→曲輪3→曲輪2→本丸に行けば行くほど、4号堀→3号堀→2号堀→1号堀と続いていきます!規模は年々拡大されたのかもしれませんが、通常の山城と比べシンプルで古い形での城の構造だと感じますね(`・ω・´)ゞ














どんどん北側にすすんでいきます! 曲輪の一つ一つが広い!デカい!
鬼怒川が天然の大堀として機能していますね!











飛山城の案内版です( `ー´)ノ
























飛山城の一番北側から南側を見てみました♪



内堀になるんだと思いますが、土塁と空堀を楽しみながら戻っていきましょう~( ̄▽ ̄)





堀の深さが増しているところは土橋が掛けてあった様です!



空堀は曲輪によって区切られているようですね!





空堀には畝(うね)が築かれており防衛ラインを一応気にして強化していましたね~









なかなか大きな平山城でしたねぇ~! 本当に鎌倉時代から戦国時代(秀吉の頃)まで芳賀氏の居城として存在していた城って凄いことだと思います(`・ω・´)ゞ



