CATEGORY お墓・廟

武将や大名、もしくはその家臣など関係者にまつわるお墓(廟)を表示しています。

伝 真田幸村のお墓(鹿児島県)

伝 真田幸村のお墓の感想 いやっ!まさか。そんな真田幸村のお墓が鹿児島県にあるなんて😱あくまでも言い伝えレベルの確証のないものではありますが、なんかもしかしたらとか考えてしまいますよね。 そして事前に断っておきますが、お墓まで行けておりません。。入り口で引き返しました。🙇写真ではわかりづらいと思いますが、かなりあたりが暗くなっている時間で山の中なので何かあったらと思 […]

島津貴久の灰塚(鹿児島県)

島津貴久の灰塚の感想 島津貴久公は加世田のこの地で父親の日新公同様に亡くなり荼毘に伏されたとのことです。貴久のお墓としては福昌寺跡の島津家墓所にあります。この灰塚がどうなのかはよくわかりませんでしたが、一般的に灰塚は荼毘に伏した時の棺など一緒に燃やしたものを塚として埋葬したものになります。なので遺骨などはこの場所には埋葬されていないと思われます。島津貴久の灰塚ですが、貴久の息子、島津義久が釈迦院を […]

日新公(島津忠良)の墓(鹿児島県)

日新公(島津忠良)の墓の感想 日新公(島津忠良)のお墓に行ってきました!戦国時代の島津家と言えばこの日新公から始まったと言われるくらい重要な人物です。日新公は1492年に伊作城(いざくじょう)で誕生します。日新公が活躍した時代は島津宗家が弱体化していた頃で島津家としてお家の再興を求めていた時代背景があります。日新公は伊作島津家の生まれで宗家ではなかったのですが、宗家が弱体化していたため、伊作島津家 […]

尾辻佐左衛門の墓(鹿児島県)

尾辻佐左衛門の墓の感想 尾辻佐左衛門は島津尚久(しまづなおひさ)の家臣とされている人物で、島津尚久の墓の隣にお墓があります。尾辻佐左衛門がどのような活躍をした人物なのかは調べてもよくわかりませんでした。 島津尚久は、島津貴久の弟であり、兄、貴久の家臣として活躍します。(島津貴久は島津4兄弟の父親であり、貴久も尚久も日新公(島津忠良)の息子に当たる人物になります。)島津尚久は7歳で初陣を飾ったとされ […]

伝 千葉一族の墓(東京都)

伝 千葉一族の墓の感想 『伝 千葉一族の墓』は下総国ではなく『武蔵千葉氏』と云われる千葉一族の墓で、武蔵千葉氏の祖とされる千葉自胤(ちばよりたね)が1492年に寺領を寄進した松月院に一族の墓がありました。 武蔵千葉氏は元々は下総国の千葉氏で、一族などの争いで負けてしまい市川城(国府台城)が落城したため兄の千葉実胤と共に武蔵国に逃げ込み、千葉実胤は近くの赤塚城へ千葉自胤は石浜城へ移ったとされます。そ […]

島津尚久の墓(鹿児島県)

島津尚久の墓の感想 島津尚久は島津忠良(日新公)の三男になります。長男の島津貴久とお供し、7歳で初陣を飾ったと言われています。その後も次男の島津忠将(しまづただまさ)と祁答院氏(けどういんし)を破ったりと活躍を見せます。ちなみに祁答院氏は現在も薩摩川内市に地名が残っております。祁答院氏は「相模国渋谷氏」(神奈川県)が発祥で、現在の「高座渋谷駅(小田急線)」あたりが発祥の地とされています。この相模国 […]

大谷吉継供養塔(福井県)

大谷吉継供養塔の感想 敦賀駅から気比神宮方面に向かい、クルマだと約6分、徒歩だと20分ぐらいの神宮を過ぎた先にある『永賞寺』があります。その永賞寺そのに敦賀城主であった大谷吉継の『大谷吉継供養塔養塔』があります。大谷吉継は『大谷刑部』と呼ばれており、石田三成に味方して関ヶ原の戦いで戦死(自害)してしまいます。後に1609年に大谷吉継を供養するために層塔が造立されたと云われているみたいですね!(o^ […]

島津家墓所/福昌寺跡(鹿児島県)

島津家墓所の感想 島津家墓所へ行ってきました!現在は国の指定史跡にも指定されている島津家のお墓になります。島津家のお墓は福昌寺というお寺にあり、現在はお寺は廃寺となっております。お寺の一部は鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校になっており、高校の裏にお墓がある感じです。この福昌寺というお寺は、1394年に島津家第7代当主「島津元久」によって建てられたお寺で、1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来た […]

本庄宗秀・宗武の墓(京都府)

本庄宗秀・宗武の墓の感想 本庄宗秀・宗武は宮津藩の最後の藩主として知られており、本庄氏は近世大名家であり華族の子爵家でもあります。本庄松平氏の流れであり本庄宗秀は松平宗秀の名の方が有名なのかもしれませんね。本庄(松平)宗秀は幕末時代幕府の老中職として務めており、第二次長州征討にも幕府側の軍として従軍し副総督を務ており、その際に長州藩の捕虜を釈放したり独断で休戦協定を締結したために老中職をとかれてし […]

稲富一夢斎の墓(京都府)

稲富一夢斎の墓の感想 稲富一夢斎は稲富祐直(いなとみすけなお )といい、初名は直家と云われており『伊賀守』を名乗っていました。 なぜ『伊賀守』かと云えば、稲富氏は、元々は鎌倉時代末期ごるは伊賀国に住んでいたとされ、伊賀国から丹後国に移り住み、当初は『山田氏』と名乗っていましたが移り住んだ土地が『稲富保(いなとみのほ)』と呼ばれる港町だったことから『稲富氏』を名乗った様ですね。祖父の稲富相 […]

1 9