CATEGORY お墓・廟

武将や大名、もしくはその家臣など関係者にまつわるお墓(廟)を表示しています。

伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓(神奈川県)

伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓の感想 梶原景時館から東に80mのところに『伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓』があります。『伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓』には2つの説があり、ひとつ目の説は『1200年頃、梶原景時の一族郎党が一之宮を出発後、清見関(現在の静岡県静岡市清水区)で討死してしまいます!(確かに静岡県の山の上に梶原景時討死の地があったような・・・) 一之宮館の留守居役であった家族や家臣がこの […]

  • 2025.03.18

今川氏親の墓(静岡県)

今川氏親の墓の感想 1473年、駿河国の守護大名だった今川義忠の嫡男として生まれました。幼名は龍王丸(たつおうまる)です!(^▽^)/ 今川義忠の奥さん(氏親の母親)は北川殿と呼ばれ、あの北条早雲(伊勢盛時 → 伊勢宗瑞)の姉とされています。 まだ氏親が龍王丸だったころ今川家は混乱の最中でした!1476年に今川義忠が遠江国の塩買坂での戦で戦死してしまいます。龍王丸は未だ幼少だったため、家臣の三浦氏 […]

(宍戸氏家臣)三十人の墓(広島県)

(宍戸氏家臣)三十人の墓の感想 安芸国の毛利元就と周防国の陶晴賢との『厳島合戦』の前に、毛利氏の家臣に宍戸孫六と呼ばれる武将が海老山に城を築いたと云われております。陶氏は3万の軍勢で毛利氏との合戦に備え、海老山城にあった『宍戸氏館跡』を攻め、宍戸氏の家臣三十名の尊い命が犠牲になった様です。亡くなった家臣の遺骸は海老山に土葬され、埋葬された後に村民により墓石が建てられました。今でも桜の木の下には当時 […]

竹原小早川家墓地(広島県)

竹原小早川家墓地の感想 竹原小早川家の墓地が手島屋敷跡のすぐ近くにありました( `ー´)ノ そこには『竹原小早川家墓地』の案内板があり、それによると・・・『宝篋印塔約10基、五輪塔約20基ほどある様です。あらためて木村城の西北の方角にあたる場所にあり竹原小早川家の墓所として間違いないようです。。。殆どが中世末期の様式らしく、墓所から一段高い尾根上にある二基の宝篋印塔は、小早川隆景(毛利元就の三男) […]

  • 2025.01.19

友田興藤の墓(広島県)

友田興藤の墓の感想 友田氏はもともとは佐伯氏だった様ですね。安芸国佐西郡桜尾城主であったとされ、後に友田村に住み友田氏と名乗ったようです。友田氏は代々厳島神社に関わり合いを持ちながら、大内義興と共に京に上り西軍側として戦っているが1518年に大内義興と共に友田興藤も帰国した際に、大内義興に神主職の裁定を愁訴したみたいですが、大内義興は桜尾城や己斐城に城番を送り込んで神領(厳島神社領)を接収してしま […]

陶晴賢の墓(広島県)

陶晴賢の墓の感想 陶晴賢は、周防国・長門国を中心に石見国、豊前国、筑前国を支配した大内氏の重臣を代々務めている大内氏の一族で、父である陶興房(実は養父)の跡を継ぎ、大内義隆の重臣として大内家の屋台骨(特に軍事方面)を支えた武将です。当時は陶隆房(大内義隆から一字もらい受けて)と名乗っていました。 主君である大内義隆が出雲遠征(尼子討伐)に失敗すると、大内義隆は軍事面に無関心となり文化や宴などに没頭 […]

市川少輔七郎元教の墓(山口県)

市川少輔七郎元教の墓の感想 市川元教(いちかわもとのり)は毛利家の家臣で、山口奉行を務めていた重臣の市川経好(いちかわつねよし)の嫡男です。1578年に豊後国の大友宗麟の内応に加担し反乱を企てましたが、父である市川経好にバレてしまい市川経好の密命を受けた雑賀隆利と内藤元輔らにより殺害されたと云われています。めちゃめちゃ不思議ですよね・・・市川経好は元々吉川家にいた重臣で当時吉川家の当主だった従兄の […]

大内義隆主従之追善供養塔(山口県)

大内義隆主従之追善供養塔の感想 大内館(龍福寺)の境内にあります『大内義隆主従之追善供養塔』です!『大内義隆主従之追善供養塔』は、2000年の大内義隆の450回大遠忌に当たり、それに因んで建立された供養塔みたいです。大内義隆のお墓は長門市にある大寧寺(自害した場所)にありますが、正面奥の『宝篋印塔』はその大寧寺にある義隆の墓を原寸大に複製したものや、『十三重塔』には大内義隆に従い戦死した冷泉隆豊な […]

宗家 松浦 13代 盛公の墓(長崎県)

宗家 松浦 13代 盛公の墓の感想 松浦党の名前は代々『一文字』とされています!梶谷城の城下に『宗家 松浦 13代 盛公の墓』があります。『盛』と書いて『さかる』と読むようですね。。。 松浦 盛公は松浦氏13代目の当主であり、本拠地はここ『梶谷城』ではなく、佐世保にある『相神浦(あいこのうら)』に『武辺城』を築き、朝鮮との『歳遣船(さいけんせん)貿易』を行い、相神浦(佐世保市相浦)を貿易港として発 […]

高橋紹運公の墓(福岡県)

高橋紹運公の墓の感想 前回の『岩屋城』のレポートにも記載しましたが、岩屋城で壮絶な討死をした高橋紹運と家臣団のお墓が、岩屋城の二の丸付近にあります(`・ω・´)ゞ 高橋紹運の大体の流れは前回にも記載しましたが、武将・人物としてもとても優れており、個人的には本当に大好きな戦国武将です。(そんなに有名ではありませんが知る人ぞ知るって感じです)高橋紹運が、高橋家を継いだのは22歳の時だと云われています。 […]

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