奥州探題 畠山家墓所(福島県)

奥州探題 畠山家墓所の感想 南北朝時代に1340年北朝方より欧州探題として入国した畠山高国が初代とし、十一代目当主畠山義継が伊達政宗と戦い討ち死にするまでの約240年間この地を支配し、畠山義継の次男義孝が畠山氏から二本松氏を名乗ったとされてると案内板には書いてありますが、もっと前から二本松氏と名乗っていたのかもしれませんね!(●^o^●) まぁ~二本松氏よりも畠山氏の方が名が通ているのでごちゃごち […]

丹羽家御廟・陰墓(福島県)

丹羽家御廟・陰墓の感想 二本松藩主丹羽家のお墓がある『丹羽家御廟・陰墓』が曹洞宗巨邦山大隣寺にありました。『陰墓』とは奥様方の意味がある様です。丹羽氏は織田信長に仕え織田四天王のひとり、丹羽長秀が有名なのではないでしょうか?織田信長の下で数々の武功を挙げた丹羽長秀は若狭一国を与えられ、織田家臣団の中では一番最初に国持大名となった武将としても有名ですよね!武功も政治も長けていたんでしょうな~(*´ω […]

小山城(宮崎県)

小山城の感想 宮崎県にある小山城(おやまじょう)になります。栃木県の小山城はこちらを参照ください。この小山城ですが、築城時期も城主も不明でよくわからないです。ただ、わずかな情報ですが、ここに立っている標柱の説明を読むと、1377年に祢寝久清(ねじめひさきよ)宛に今川満範(いまがわみつのり)が書状を送っていてその中にこの小山城が出てくるとのこと。また別の樺山資久(かばやますけひさ)の書状で都城が初見 […]

大多喜城(千葉県)

大多喜城の感想 大多喜城に行ってきました! 築城は真里谷(武田)信清が築城したお城で、里見氏が安房の統一を図るために苦心したお城で、私は正木時茂さんのお城だと思って期待していきましたが、地元は本多忠勝さんのお城として盛り上がっていました。その理由は・・・あとあと伝えるとして・・・ 大多喜城は元々『小多喜城』として築かれていたとされ、元々は『根古屋城/大多喜根古屋城』のひとつだった城(砦)が『小多喜 […]

大多喜根古屋城 / 小多喜城 / 根古屋城(千葉県)

大多喜根古屋城 / 小多喜城 / 根古屋城の感想 大多喜根古屋城は勢力を拡大し上総国を狙う里見氏の侵攻に対抗した、上総真里谷城主の武田信興が次男の武田信清に命じ築城させた城で支配力を強めたとされています。武田信清から武田朝信の二代に続き城主としていましたが、里見氏の重臣 正木時茂 に攻められ『上総苅谷原の戦い』であえなく大敗し武田朝信は自害してしまいます。 正木時茂はそのまま大多喜根古屋城に入城し […]

野々美谷城(宮崎県)

野々美谷城の感想 野々美谷城(ののみたにじょう)と読みます。野々美谷城も志和池城同様に取り合いで目まぐるしく城主が変わったお城になります。都城周辺の戦国時代の凄まじい取り合いを志和池城と同じくらい良く表しているお城の一つと言えると思います。 確実にこの野々美谷城(城としてあったか)だったのかは定かではないですが、野々美谷周辺を最初に領有していたのは島津氏ですが、1300年代中頃に相良氏に攻められて […]

新城/志和池新城(宮崎県)

新城/志和地新城 新城としか記載されていないですが、志和地城の新城に当たるので志和池新城と呼ばせていただきます。新城という名称の志和池城の曲輪の可能性もあるのかなと思いますが、ここでは志和池城と分けて紹介させていただきます。志和池城のところにあった案内板の通り、志和池城(本城)より後に作られたものと思われ、志和池城もそれほど高い場所ではないが志和池城の麓にあたる場所にあるので戦国時代末期から一国一 […]

茂木城 / 桔梗城(栃木県)

茂木城 / 桔梗城の感想 茂木城は八田知家(鎌倉幕府有力御家人のひとりで鎌倉幕府十三人の合議制のメンバー)が源頼朝に下野国茂木郷の地頭職を承り、八田知家の三男であった八田知基(とももと)が現地へ遣わされ、そこで土着し八田氏→茂木氏に名を変えたと云われ、1192年頃、茂木城を築城したと云われています。茂木氏の勢力はなかなかで、この地では宇都宮氏・那須氏・佐竹氏、そしてこの茂木氏が覇権を奪い合っていま […]

本佐倉城(千葉県)

本佐倉城の感想 本佐倉城と云えば、下総国(しもうさのくに)の雄!名門!千葉氏の城でめちゃくちゃ知られていますが、勘違いしていたのは私だけかもしれませんが、私は元々、下総国(かみうさのくに)の上総 (かずさ)広常(こやつが鎌倉殿の初期13人に入るぐらいの重要なやつ!)の流れかと思いきや!あんまり関係なかったりしていますね。 戦国時代(室町時代)の頃、千葉宗家を倒して家督を奪った『馬加(『ばか』ではあ […]

幡谷城(千葉県)

幡谷城の感想 幡谷城は助崎城を居城とした大須賀氏の大須賀胤秀の子、大須賀胤盛(民部とも呼ばれていたらしい)の居城だった様です。助崎城からの支城だったため規模はそんなに大きくも無く、真っすぐ本丸に続く道に2つぐらい堀切があって簡単な曲輪を築いており本丸に続いていたものだと思われます。東方方面2kmの上流部に、大須賀氏の本城であった助崎城が存在しており、助崎城の西側の防衛ラインの1つとして構築されたん […]

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