- 2025.01.19
- 入場料無料,
山崎興盛自刃之地(山口県)
山崎興盛自刃之地の感想 須々万沼城 (すすまぬまじょう)のすぐ近くに須々万沼城 の城番だった山崎興盛の『山崎興盛自刃之地』があります。山崎興盛は大内氏の家臣であり、後に陶氏の家臣になった人物だと思われますが詳しくはわかりません。名前に『興』の文字があることから大内義興(大内義隆の父親)との関係が強いものだと思われます。 須々万沼城 の籠城戦で山崎興盛親子、江良賢宣、宮川伊豆守らと毛利軍と […]
お城や武将など歴史に関するもので他の分類に分けられないようなものを表示しています。
山崎興盛自刃之地の感想 須々万沼城 (すすまぬまじょう)のすぐ近くに須々万沼城 の城番だった山崎興盛の『山崎興盛自刃之地』があります。山崎興盛は大内氏の家臣であり、後に陶氏の家臣になった人物だと思われますが詳しくはわかりません。名前に『興』の文字があることから大内義興(大内義隆の父親)との関係が強いものだと思われます。 須々万沼城 の籠城戦で山崎興盛親子、江良賢宣、宮川伊豆守らと毛利軍と […]
三好長慶公生誕之地の感想 戦国時代に織田信長よりも最初に天下人になった武将である『三好長慶』が生まれた場所『三好長慶公生誕之地』です!すぐ近くには三好代々100年間の居城となった芝生城があります 元々は機内で政権を握る細川晴元の有力な家臣で、三好長慶の父である元長は細川晴元と敵対していた細川高国を攻め滅ぼすなど有能な重臣でもあったが、阿波国のみならず畿内の山城国にも勢力を拡大したため、主君である細 […]
旧小幡藩武家屋敷 松浦氏屋敷の感想 小幡藩の中老を務めた松浦氏の屋敷で1978年(昭和53年)まで住居、蚕室として利用されていたとのことで、建てられたのが18世紀中頃で江戸時代後期というのを考えると比較的最近まで使われていた屋敷と言えます。昭和53年に甘楽町に寄贈されて、現在松浦市屋敷は群馬県指定史跡となっており、建物が非常に綺麗に残っているとのことで学術的にも価値があるとのことです。実際に訪問し […]
信玄公が撃たれた場所の感想 最強武田軍(武田信玄)が織田信奈が包囲網のひとつ『西上作戦』の最中、この徳川軍の野田城を攻めているときに、武田信玄が野田城の菅沼 定盈の家臣だった鳥居三左衛門に狙撃され、即死とはならなかったもの致命傷となり、後に武田信玄は没し・・・西上作戦が断念させられた伝説のある場所です。 野田城攻めの際に武田信玄は夜な夜な聞こえてくる笛の音に興味を持ったとされています。笛の音は村松 […]
真田氏発祥の地の感想 天徳寺内にある真田城のすぐ側に『真田発祥の地』があります。 相模国の真田氏は、相模三浦氏一門である岡崎城主の岡崎義実の嫡男義忠が大住郡真田の地に本拠を置き真田与一義忠と名乗ったのが真田城の起源であるり、相模真田氏の発祥となっているみたいです。石橋山の合戦において、源頼朝軍に参陣し、源頼朝軍の軍勢300余騎は大庭景親の平家軍3,000余騎が石橋山で夜中に合戦となり、真田与一義忠 […]
土屋一族の墓 / 土屋氏発祥の地の感想 土屋城から少し下ったところに『土屋一族の墓』と『土屋氏発祥の地』があります(〃艸〃)ムフッ 土屋氏は、鎌倉幕府の御家人として活躍した土屋弥三郎宗遠らしく、この地域(中村郷)を支配していた中村宗平の三男みたいですね。土屋弥三郎宗遠は源頼朝に厚い信頼を持たれていた武将だったらしいです。運命が大きく変わったのが1416年(応永23年)に起きた『上杉禅秀の乱』でした […]
武田氏発祥の地/武田氏館の感想 甲斐武田氏発祥の地へ行ってきました。甲斐武田氏と言えば誰でも知ってる武田信玄ですが、その武田氏のルーツを辿るとなんと茨城県ひたちなか市に辿り着きます。ちなみにその甲斐で武田を名乗るきっかけになったのが鎌倉時代まで遡りますが、新羅三郎義光(源義光)になります。実際に武田を名乗ったのは義光の息子「義清(よしきよ)」の代からです。ちなみに甲斐源氏の祖である新羅三郎義光(源 […]
馬場信春(信房)討死の地の感想 『馬場信春(信房)と馬場勝行の墓』から約450m先に『馬場信春(信房)討死の地』があります。討死と云っても、たぶんですが私なりの解釈では武田勝頼を逃がした後に戦える余力がありながらも、潔しとせずに敵に囲まれ場がらもこの場所で『自害』した場所なんだろうなぁ~って思っています。 馬場信春(信房)は約800人ほどの軍団を引き連れ長篠・設楽原の合戦の参戦したようですね。織田 […]
山本信供/勘助(二代目)/勘蔵 討死の地の感想 山本信供/勘助(二代目)/勘蔵の墓から約4㎞豊川沿いの愛知県新城市大海字下林まで北上したところに、『山本信供/勘助(二代目)/勘蔵 討死の地』があります。脇道にそれた住宅地の中にひっそりとありましたが、この豊川沿いを更に北上したところに、馬場信春の討死した場所があることから、私個人的には長篠・設楽原の合戦に負けた武田勝頼が撤退したルートではないかと思 […]
土屋昌続(昌次)討死の地の感想 土屋昌続(昌次)は武田二十四将のひとりとされ、金丸寅義の次男として生まれ平八郎と名乗っていたが、成長とともに武田信玄から『昌』の文字を貰い『金丸昌続(昌次)と名乗り、後に真田昌幸・三枝昌貞・曽根昌世・甘利昌忠・長坂昌国らと『奥近習六人衆』とされる信玄直属の若手側近として活躍する。初陣は真田昌幸と同じ第四次川中島の合戦であったため(一番激しい戦い)真田昌幸と共に武田信 […]