CATEGORY 江戸時代

主に江戸時代、1600年代以降に築城、存在した武将、大名などに関するものを表示しています。

敦賀城(福井県)

敦賀城の感想 敦賀城は人気の武将!大谷吉継でご存じの方も多くいらっしゃると思うのですが、築城は織田信長が越前を平定し、その後、本能寺の変で織田信長が謀殺されると羽柴秀吉が明智光秀を討ち、越前には羽柴秀吉の家臣、蜂屋頼隆が越前国敦賀に入国し三層の天守を持つ敦賀城を築城したと云われています。蜂屋頼隆は元々織田信長の古くからの家臣で、近江国肥田城や和泉国岸和田城などの城主を任されたのち羽柴秀吉に預けられ […]

伊作城/亀丸城(鹿児島県)

伊作城/亀丸城の感想 伊作城(いざくじょう)と読みます。伊作城は別名中山城とも呼ばれるみたいですが、伊作城は各曲輪を「城」と呼ぶ山城で、本丸を亀丸城、他にも御仮屋城・山之城・蔵之城・東之城・西之城・花見城などと呼ばれる曲輪があります。山城としての規模もかなりのものですが、曲輪一つ一つが独立しているお城くらいに堀切が深く広いのでこのような呼び方にしたのかな?なんて思ったりします。 伊作城の歴史ですが […]

小浜城 / 雲浜城(福井県)

小浜城 / 雲浜城の感想 小浜城は『こはまじょう』ではなく『おばまじょう』って読みます!やっぱ日本語は難しいぃぃぃぃぃ~(´;ω;`)ウゥゥ また、別の名を『雲浜城』と云い『うんぴじょう』って呼びます! やっぱり難しいぃぃぃぃぃぃぃ(;゚Д゚) 関ケ原合戦後、1601年に若狭国に入国した京極高次が小浜城を築城し始めました。その後、新たに入った酒井忠勝が小浜城の完成に着手!縄張りも拡大しながら現在の […]

建昌城/瓜生野城(鹿児島県)

建昌城/瓜生野城の感想 建昌城(けんしょうじょう)もしくは瓜生野城(うりうのじょう)と読みます。歴史的には最初、瓜生野城が築城されてその後、江戸時代に建昌城という名前で現れたため「建昌城」と呼ばれているみたいです。画像の方で説明しますが、さらに建昌城の曲輪の一部は「胡麻ヶ城(ごまがじょう)」と呼ばれておりこの胡麻ヶ城と呼ばれる場所が「瓜生野城」があった場所とされているようです。うーん。解りづらい& […]

後瀬山城(福井県)

後瀬山城の感想 後瀬山城・・・皆さんはなんて読みますか??? 私は『ごせやまじょう』って読んでいましたが、本当の読み方は『のちせやまじょう』って読むみたいです~日本語って難しいぃ~(ノД`)・゜・。 後瀬山城は武田元光(若狭国守護大名六代目当主)によって築かれたと云われています。後に若狭武田氏四代(元光を初代、元明を四代と考えると)の城として栄えていましたが、四代目の武田元光が朝倉義景に一乗谷に連 […]

後瀬山城跡守護居館跡 / 若狭武田氏館跡(福井県)

後瀬山城跡守護居館跡 / 若狭武田氏館跡の感想 後瀬山城跡守護居館跡/若狭武田氏館跡は、若狭国を治める守護大名の武田氏の館とされ、その裏山が若狭武田氏の居城『後瀬山城』ですね(=゚ω゚)ノ当時、全国でも有数の国際港湾都市となっていた小浜を統治するために、館の後背にそびえる後瀬山に城を築き、実質の政務はここ後瀬山城跡守護居館跡 / 若狭武田氏館跡で行っていたんじゃないでしょうか? 後で後瀬山城のレポ […]

島津家墓所/福昌寺跡(鹿児島県)

島津家墓所の感想 島津家墓所へ行ってきました!現在は国の指定史跡にも指定されている島津家のお墓になります。島津家のお墓は福昌寺というお寺にあり、現在はお寺は廃寺となっております。お寺の一部は鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校になっており、高校の裏にお墓がある感じです。この福昌寺というお寺は、1394年に島津家第7代当主「島津元久」によって建てられたお寺で、1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来た […]

加世田麓(鹿児島県)

加世田麓の感想 加世田麓(かせだふもと)と呼びます。別府城/加世田城の麓にある場所で、簡単に言うと、城下の武家屋敷街だったところをこのように麓と呼んでいるみたいです。麓についての詳細な説明がなかったのでこのように理解しています。 加世田麓以外にも十二の麓があるみたいで幟旗が立てられていました。無料で武家の住宅が見学できるとのことで「旧鯵坂家住宅」に入らせていただきました。ただ、門があていたので入ら […]

宮津城(京都府)

宮津城の感想 宮津城にはてこずりました・・・(ノД`)・゜・。細川(当時は長岡姓)藤孝(名将ですねぇ~♪)が築城した宮津城だったので、めちゃめちゃ興味があり城攻めしてみましたが・・・ほぼほぼ城郭は住宅地として再開発され跡形も無くなっていました・・・(´;ω;`)ウッ…  それでも宮津城の形跡を追い宮津市の市内をあっちに行ったりこっちに行ったり右往左往です!丹後国守護大名の一色氏を滅ぼした細川藤孝は […]

本庄宗秀・宗武の墓(京都府)

本庄宗秀・宗武の墓の感想 本庄宗秀・宗武は宮津藩の最後の藩主として知られており、本庄氏は近世大名家であり華族の子爵家でもあります。本庄松平氏の流れであり本庄宗秀は松平宗秀の名の方が有名なのかもしれませんね。本庄(松平)宗秀は幕末時代幕府の老中職として務めており、第二次長州征討にも幕府側の軍として従軍し副総督を務ており、その際に長州藩の捕虜を釈放したり独断で休戦協定を締結したために老中職をとかれてし […]

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