宮津城(京都府)
宮津城の感想 宮津城にはてこずりました・・・(ノД`)・゜・。細川(当時は長岡姓)藤孝(名将ですねぇ~♪)が築城した宮津城だったので、めちゃめちゃ興味があり城攻めしてみましたが・・・ほぼほぼ城郭は住宅地として再開発され跡形も無くなっていました・・・(´;ω;`)ウッ… それでも宮津城の形跡を追い宮津市の市内をあっちに行ったりこっちに行ったり右往左往です!丹後国守護大名の一色氏を滅ぼした細川藤孝は […]
主に江戸時代、1600年代以降に築城、存在した武将、大名などに関するものを表示しています。
宮津城の感想 宮津城にはてこずりました・・・(ノД`)・゜・。細川(当時は長岡姓)藤孝(名将ですねぇ~♪)が築城した宮津城だったので、めちゃめちゃ興味があり城攻めしてみましたが・・・ほぼほぼ城郭は住宅地として再開発され跡形も無くなっていました・・・(´;ω;`)ウッ… それでも宮津城の形跡を追い宮津市の市内をあっちに行ったりこっちに行ったり右往左往です!丹後国守護大名の一色氏を滅ぼした細川藤孝は […]
本庄宗秀・宗武の墓の感想 本庄宗秀・宗武は宮津藩の最後の藩主として知られており、本庄氏は近世大名家であり華族の子爵家でもあります。本庄松平氏の流れであり本庄宗秀は松平宗秀の名の方が有名なのかもしれませんね。本庄(松平)宗秀は幕末時代幕府の老中職として務めており、第二次長州征討にも幕府側の軍として従軍し副総督を務ており、その際に長州藩の捕虜を釈放したり独断で休戦協定を締結したために老中職をとかれてし […]
稲富一夢斎の墓の感想 稲富一夢斎は稲富祐直(いなとみすけなお )といい、初名は直家と云われており『伊賀守』を名乗っていました。 なぜ『伊賀守』かと云えば、稲富氏は、元々は鎌倉時代末期ごるは伊賀国に住んでいたとされ、伊賀国から丹後国に移り住み、当初は『山田氏』と名乗っていましたが移り住んだ土地が『稲富保(いなとみのほ)』と呼ばれる港町だったことから『稲富氏』を名乗った様ですね。祖父の稲富相 […]
内城の感想 内城は戦国時代のお城としては珍しく平城であまり戦闘のことは考えていなかったお城と思われます。しかも島津家として50年間も居城にしていたお城と考えると違う意味で島津家の凄さがわかる気がします。内城は島津家の第十五代当主「島津貴久」によって1550年に築城されたお城になります。島津貴久は有名な島津4兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の父親になります。この4兄弟があるのも貴久の活躍があってこそで […]
帖佐地頭仮屋跡の感想 帖佐地頭仮屋とは、江戸時代に地頭という藩から役人が派遣されてきてその人たちが政務を行なった場所を「地頭仮屋」と呼ぶみたいです。帖佐地頭仮屋においては島津藩としての派遣というよりは越前島津藩の領主もしくは家臣が地頭として政務を行なっていたようです。現在の帖佐地頭仮屋は帖佐小学校になっており、遺構らしきものは残っていないようです。 この地頭仮屋(帖佐小学校)の横の道を進んでいくと […]
平松城の感想 平松城は蒲生氏が敗れた後に島津義弘が岩剣城の在番を任されて入りますが、岩剣城が山城で普段の生活に使うには厳しい場所にあったために、麓にこの平松城を建てました。お城の築城としては1554年ごろかと思われますが、島津義弘が平松城(屋形)を居館としたのは1605年ごろから1615年ごろまでとされています。1607年に島津義弘の夫人がこの場所で亡くなられているとのことです。島津義弘はその後、 […]
弓木城の感想 弓木城は丹後国(現在の京都府与謝野町岩滝)にあり、鎌倉時代の末期頃に稲富氏が築いたことから始まったとされいるみたいですね。稲富氏は元々伊勢平氏の流れを組む山田氏だった様で、丹後国に侵攻した際にこの稲富姓を名乗り土着したようです。室町時代になり足利一門の一色氏が丹後国の守護大名となるとそれに従い家臣として務めていた様です。 戦国時代に入ると室町幕府四職筆頭格だった一色家当主の一色義定が […]
鳥取城 / 久松城 / 久松山城の感想 鳥取城は1532年~1555年頃に山名氏によって築かれたと云われ、標高263mの久松山の山頂(って云うよりは山全体!?)に築かれた山城です。鳥取城って云いますが、久松山に城が築かれたことから『久松城(きゅうしょうじょう)』『久松山城(きゅうしょうざんじょう)』という別名もあります。ただ、今の鳥取城は江戸時代に入ってから池田輝政の孫の池田光政が鳥取藩32万石の […]
蒲生城の感想 蒲生城(かもうじょう)もしくは別名で竜ヶ城(りゅうがじょう)と呼びます。鹿児島県の姶良市にあるお城で、なんと築城は1123年で平安時代に築城されたお城になります。蒲生城は蒲生氏のお城で、初代蒲生氏の蒲生上総介舜清(かもうかずさのすけちかきよ)が築城したと言われております。舜清は蒲生・吉田の惣領職として京都からやってきた人物のようです。その後、蒲生城は蒲生氏の居城として戦国時代の155 […]
正木時茂之墓の感想 あえて・・・『里見家墓所』とは別に記載させて下さい。大岳院内にある里見家墓所の里見忠義の墓の隣に『正木時茂之墓』があります!思わず私は・・・『え!?あの正木時茂がここで亡くなったの!?』っと興奮しまくりでした。後で調べてみるとなかなか『正木時茂』っていう人物像と合致せずに調べ続けていたら・・・ようやくわかりました!!! 私が興奮していたのは、正木時綱の子で里見義堯(さとみよした […]