(羽柴)秀吉本陣跡/平井山ノ上付城跡(兵庫県)
(羽柴)秀吉本陣跡の感想 三木合戦の際に秀吉が本陣として使用した陣跡になります。平井山ノ上付城跡(ひらいやまのうえつけじろあと)とも呼ばれているそうです。三木合戦は秀吉を離反した三木城城主の別所長治を討伐するための戦いになります。案内板には「天正6年(1578)7月、織田信長の長男、信忠が三木城を支援する神吉城や志方城(ともに加古川市)を攻略した後、築城したとされている。8月に羽柴秀吉が入ると、1 […]
(羽柴)秀吉本陣跡の感想 三木合戦の際に秀吉が本陣として使用した陣跡になります。平井山ノ上付城跡(ひらいやまのうえつけじろあと)とも呼ばれているそうです。三木合戦は秀吉を離反した三木城城主の別所長治を討伐するための戦いになります。案内板には「天正6年(1578)7月、織田信長の長男、信忠が三木城を支援する神吉城や志方城(ともに加古川市)を攻略した後、築城したとされている。8月に羽柴秀吉が入ると、1 […]
白巣城の感想 白巣城は安宅氏(あたぎし)のお城で安宅八家衆のお城のうちの一つです。戦国時代に安宅氏は淡路島の細川氏を三好之長が征伐し守護が不在となった淡路島で力をつけてきた国人衆になります。安宅氏が国人衆の中で勝ち抜いた理由として淡路水軍という水軍を持っていたためとも言われています。1581年になると織田信長(羽柴秀吉)がそれまでの方針を転換して四国攻めを開始すると淡路島も洲本城を仙石久秀に明け渡 […]
牛尾城 / 三笠城 / 三笠山城の感想 もしかしたら三笠城が正しいのかも知れませんが、あえて私は牛尾城と記載させて頂きます!( `ー´)ノ牛尾氏は出雲国の有力な国人衆の一族だったらしく、尼子経久が月山富田城を奪還し出雲国に勢力を拡大し始めると、牛尾氏は尼子経久の家老(出雲国の国人衆なのに!!!凄い!!!)となりその剛腕を発揮して出雲国制覇に貢献したようです。牛尾氏は元々信濃国の諏訪神社神主家&nb […]
阿用城 / 阿与城 / 磨石城の感想 阿用城は行ってみたかった城のひとつです。尼子経久の本を読んでいると、京極氏の守護大名を支える家臣として、桜井宗的という武将が出てきます。この武将は秩序を重んじる知見者であり弓矢の名手だとも記載されていました。尼子経久が出雲国を席巻し周りの状況もどんどん変わる中、古き良き武家社会を想う桜井宗的は京極氏への想いと尼子経久への憎悪を膨らましていきます。一時は尼子経久 […]
三沢城 / 鴨倉城 / 亀嶽城の感想 1305年、三沢為仲(木曽義仲の孫)によって鴨倉山に築かれ、鴨倉城・亀嶽城と呼ばれていたようですね。三沢氏は上記に記載した通り、木曽義仲の流れを組む一族ととも云われたり、信濃国の源氏の流れを組む飯島氏の飯島城の城主だった飯島為光が1221年の承久の乱で武功を挙げ、出雲国三沢荘を与えられたため移り住んだとされてもいます。この三沢荘は良質な砂鉄を採ることが出来たた […]
妻鹿城/国府山城の感想 妻鹿城(めがじょう)もしくは国府山城(こうざんじょう)と読みます。妻鹿城は妻鹿長宗によって1330年ごろに築城されたと言われております。その後、詳細な経緯は不明ですが、1573年に黒田官兵衛の父、黒田職隆(くろだもとたか)が居城として入ります。黒田官兵衛も羽柴(豊臣)秀吉に姫路城を譲った後、この妻鹿城に短い間ですが入ります。1585年、父の黒田職隆が亡くなるとこの妻鹿城も廃 […]
平賀氏城跡の感想 平賀氏城跡は鎌倉時代に平賀義信が築城したと言われているお城になります。その後、平賀氏が代々このお城を居城として戦国時代まで使われていたとのことです。平賀氏は新羅三郎義光(源義光)の子、盛義が祖とされており、長野県佐久市の平賀地域に所領をもらったことで平賀を名乗るようになります。ちなみに新羅三郎義光(源義光)は武田信玄など武田氏の祖でもありますので、平賀氏と武田氏は同じ祖先を持つと […]
志賀城の感想 志賀城は武田晴信(武田信玄)の志賀城攻めで有名なお城で、「小田井原の戦い」の中心になったお城です。現在は佐久市内の長閑な場所といった印象ですが、1546年に武田晴信(信玄)は領地拡大のために佐久地域がどうしても欲しく、志賀城城主の笠原清繁(新三郎)に戦いを挑みます。笠原氏は関東管領の上杉憲政に援軍を頼みますが、流石の武田晴信(信玄)、家臣たちに碓氷峠へ向かわせて上杉の援軍を足止めどこ […]
久米城の感想 久米城は佐竹氏の支流佐竹北家のお城です。築城は藤原秀郷の系譜の小野崎氏と言われていて、14世紀末から15世紀初頭にかけて建てられたのではないかと言われております。その後、佐竹義武がこの久米城に入り、山入氏と戦いますが、義武は討死となり、久米城は山入氏のお城となります。義武の父、佐竹義治、弟の義信が久米城を奪還し、義信が久米城に入ります。義信のことを「北殿」と呼んだことから義信の家系を […]
花園城の感想 花園城は1156年~1159年頃に藤田政行(←元々は猪俣正行と名乗っていて藤田荘に入り藤田氏を名乗った様です)により築城されたとされたいます。そして・・・江戸時代末期に編纂された『新編武蔵風土記考』によりますと!?『花園城』は藤田氏15代が在城したと記されている様です!?(@_@)!?!?すごっ!!!!この藤田氏もなかなかで・・・(o^―^o) 藤田氏は『武蔵七党』のひとつ『猪俣党』 […]