岡崎信康本陣跡/松尾神社(愛知県)
岡崎信康本陣跡/松尾神社の感想 徳川家康の長男、徳川信康は当時岡崎城を守っていたため、『岡崎信康』と呼ばれていたのかもしれませんね。。。確かに、岡崎衆とか岡崎城を中心とする軍隊を岡崎衆と呼んでいたと思います。 岡崎信康は長篠・設楽原の合戦が初陣と云われており、父である徳川家康の本陣からは現在の状況で歩いて『20分』先!?直線距離で約10分の標高90m・比高15mの丘陵端に布陣させたと云われています […]
岡崎信康本陣跡/松尾神社の感想 徳川家康の長男、徳川信康は当時岡崎城を守っていたため、『岡崎信康』と呼ばれていたのかもしれませんね。。。確かに、岡崎衆とか岡崎城を中心とする軍隊を岡崎衆と呼んでいたと思います。 岡崎信康は長篠・設楽原の合戦が初陣と云われており、父である徳川家康の本陣からは現在の状況で歩いて『20分』先!?直線距離で約10分の標高90m・比高15mの丘陵端に布陣させたと云われています […]
徳川家康本陣跡 / 八剱神社の感想 長篠・設楽原の合戦はとても狭い山と山の狭間で、織田・徳川連合VS最強武田軍がぶつかった場所です。。。武田勝頼が小高い丘の上に本陣を引き正面に小さな田園と連吾川(今はめちゃくちゃ小さい川)を挟んで織田軍特に鉄砲隊を総動員し、二重三重の策を築いて最強武田軍を待ち構えている向かいの小高い丘(小山?)の反対側に、『徳川家康本陣跡』があります!反対側?????????って […]
真田氏発祥の地の感想 天徳寺内にある真田城のすぐ側に『真田発祥の地』があります。 相模国の真田氏は、相模三浦氏一門である岡崎城主の岡崎義実の嫡男義忠が大住郡真田の地に本拠を置き真田与一義忠と名乗ったのが真田城の起源であるり、相模真田氏の発祥となっているみたいです。石橋山の合戦において、源頼朝軍に参陣し、源頼朝軍の軍勢300余騎は大庭景親の平家軍3,000余騎が石橋山で夜中に合戦となり、真田与一義忠 […]
土屋一族の墓 / 土屋氏発祥の地の感想 土屋城から少し下ったところに『土屋一族の墓』と『土屋氏発祥の地』があります(〃艸〃)ムフッ 土屋氏は、鎌倉幕府の御家人として活躍した土屋弥三郎宗遠らしく、この地域(中村郷)を支配していた中村宗平の三男みたいですね。土屋弥三郎宗遠は源頼朝に厚い信頼を持たれていた武将だったらしいです。運命が大きく変わったのが1416年(応永23年)に起きた『上杉禅秀の乱』でした […]
武田氏発祥の地/武田氏館の感想 甲斐武田氏発祥の地へ行ってきました。甲斐武田氏と言えば誰でも知ってる武田信玄ですが、その武田氏のルーツを辿るとなんと茨城県ひたちなか市に辿り着きます。ちなみにその甲斐で武田を名乗るきっかけになったのが鎌倉時代まで遡りますが、新羅三郎義光(源義光)になります。実際に武田を名乗ったのは義光の息子「義清(よしきよ)」の代からです。ちなみに甲斐源氏の祖である新羅三郎義光(源 […]
本能寺跡の感想 日本歴史で一番有名な本能寺の変のあった場所、本能寺跡へ行って来ました。すでに当時の本能寺の面影は全くなく、現在でも本能寺自体はありますが、移築して建てられたものなので現在の本能寺は織田信長時代の場所ではありません。本能寺の変自体は語るまでもないかと思いますが、簡単に説明を書いておきます。1582年に織田信長の家臣だった明智光秀が主君の織田信長をこの本能寺で討った出来事です。教科書で […]
森可成公の墓の感想 たまたま見つけた森可成(もりよしなり)のお墓に行ってきました。坂本城にいったので近くに明智家に関わる菩提寺などがあるのではと検索していたら、聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)というお寺に森可成公のお墓があるのを見つけ行って来ました!森可成は森蘭丸や森長可のお父さんになります。森蘭丸は言わずと知れた本能寺の変で織田信長と共に討ち取られた武将で有名ですよね。蘭丸はこの時18歳とのこ […]
村上義清公の墓の感想 村上義清の墓(供養塔)へ行ってきました。村上義清と言えば、武田信玄を2回も撃退した武将。砥石城の砥石崩れなど逸話も多く残っている武将です。真田幸綱(真田昌幸の父で真田幸村の祖父)も村上義清に追い出され上野(群馬県)に逃げていた時期があります。真田は武田側、村上は上杉側につき上杉対武田の有名な「川中島の戦い」につながって行きます。最終的に村上義清は葛尾城を追い出され上杉の領地越 […]
川窪詮秋 / 土屋直規 / 望月重氏 の墓の感想 長篠・設楽原の古戦場から向かいの小高い丘の途中、常林寺の裏手に一般の墓地があり、その一般の方の墓地の手前に左手にそれた小脇の道を進んでいくと、川窪詮秋・土屋直規・望月重氏の墓があります。 『川窪詮秋』はよくわかりません!(´;ω;`)ウゥゥ川窪氏は河窪氏とも云うらしく、甲斐河窪村を領し『河窪の城山』として知られる丘に城郭を構えていた一族が川窪(河窪 […]
土屋昌続(昌次)の墓の感想 長篠・設楽原の古戦場から小高い丘を越えた反対側に『土屋昌続(昌次)の墓』があります。土屋昌続(昌次)は最も若い武田二十四将のひとりとされ、馬場隊・真田隊と共に右翼側の馬防柵を突き崩し、第一・第二馬防柵を突破して第三の馬防柵(最終防衛ラインかな???)取り付き大音声を発し討ち死にしたと云われています。土屋昌続(昌次)討死の地についてはこちら 土屋昌続(昌次)は元々、金丸筑 […]