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坂本城(滋賀県)

坂本城の感想 坂本城と言えば明智光秀のお城ですね。ほとんど何も残っていないこともありなかなか足が向かなかったのですが、今回、幻の城と言われた坂本城に新発見、令和6年2月11日に三の丸の石垣が発見されたとのことで発掘調査説明会に行ってきました。坂本城は1571年に織田信長が比叡山延暦寺の焼き討ちによる功績により明智光秀に与えた所領坂本に築城されたお城です。明智光秀は岐阜県可児市の明智城で生まれたと言 […]

川窪詮秋 / 土屋直規 / 望月重氏 の墓(愛知県)

川窪詮秋 / 土屋直規 / 望月重氏 の墓の感想 長篠・設楽原の古戦場から向かいの小高い丘の途中、常林寺の裏手に一般の墓地があり、その一般の方の墓地の手前に左手にそれた小脇の道を進んでいくと、川窪詮秋・土屋直規・望月重氏の墓があります。 『川窪詮秋』はよくわかりません!(´;ω;`)ウゥゥ川窪氏は河窪氏とも云うらしく、甲斐河窪村を領し『河窪の城山』として知られる丘に城郭を構えていた一族が川窪(河窪 […]

土屋昌続(昌次)の墓(愛知県)

土屋昌続(昌次)の墓の感想 長篠・設楽原の古戦場から小高い丘を越えた反対側に『土屋昌続(昌次)の墓』があります。土屋昌続(昌次)は最も若い武田二十四将のひとりとされ、馬場隊・真田隊と共に右翼側の馬防柵を突き崩し、第一・第二馬防柵を突破して第三の馬防柵(最終防衛ラインかな???)取り付き大音声を発し討ち死にしたと云われています。土屋昌続(昌次)討死の地についてはこちら 土屋昌続(昌次)は元々、金丸筑 […]

横田綱松(康景)の墓(愛知県)

横田綱松(康景)の墓の感想 内藤昌豊の墓の裏側に、『横田綱松之墓』があります。横田氏と云えば、武田二十四将のひとり『横田高松(よこた たかとし)←どっちが苗字なのかわかり辛い!?』の長男だと思われますが、横田高松が村上義清との戦いの際に武田信玄の最大の敗北『砥石崩れ』の際に殿(しんがり)となり討ち死にしていしまいます。横田高松が討死したため同じ足軽大将であった同じく猛将の原虎胤の息子が横田氏を継ぐ […]

内藤昌豊の墓(愛知県)

内藤昌豊の墓の感想 新城市立 東郷中こども園の近く、武田勝頼がこの場所で戦の指揮をしたといわれるところに、『内藤修理亮昌豊の墓』があります。 内藤昌豊は武田二十四将のひとりであり武田四天王のひとりでもあります。内藤昌豊は武田信虎の重臣であった工藤虎豊の次男として誕生したみたいです。工藤虎豊が武田信虎に反乱を起こしたが敗北し北条早雲を頼って逃げたようです。その後、武田信玄の時代になると「工藤源左衛門 […]

馬場信春(信房)の墓(愛知県)

馬場信春(信房)の墓の感想 馬場信春(信房)は長篠・設楽原の戦いで敗れた武田勝頼を逃すため殿(しんがり)となり討ち死した場所から約3㎞・・・長篠城の近くに『馬場信春(信房)の墓』があります。案内板によると、殿をして討ち死にした馬場信春(信房)の首はここ『馬場美濃守信房の墓』に埋められたとされているようですね。 馬場信春(信房)は武田信虎→武田信玄→武田勝頼の三代に仕え、武田二十四将でもあり武田四天 […]

馬場信春(信房)・勝行の墓(愛知県)

馬場信春(信房)・勝行の墓の感想 豊川沿いの国道257号線を北上し三差路を左路線の豊川新城線を進むと左手側(道沿い)に、『馬場信春(信房)・馬場勝行』の墓があります。(馬場信春の墓(首を埋葬したと伝えられている)場所はこちら)馬場信春(信房)は武田信虎→武田信玄→武田勝頼の三代にわたって仕えた重臣で、武田二十四将、及び、武田四天王のひとりとされた名将っていいでしょうね!馬場信春(信房)は武田信虎の […]

山本信供/勘助(二代目)/勘蔵 討死の地(愛知県)

山本信供/勘助(二代目)/勘蔵 討死の地の感想 山本信供/勘助(二代目)/勘蔵の墓から約4㎞豊川沿いの愛知県新城市大海字下林まで北上したところに、『山本信供/勘助(二代目)/勘蔵 討死の地』があります。脇道にそれた住宅地の中にひっそりとありましたが、この豊川沿いを更に北上したところに、馬場信春の討死した場所があることから、私個人的には長篠・設楽原の合戦に負けた武田勝頼が撤退したルートではないかと思 […]

山本信供/勘助(二代目)/勘蔵の墓(愛知県)

山本信供/勘助(二代目)/勘蔵の墓 高坂昌澄の墓から約1.5km離れた見渡す限り畑の中に山本信供の墓がありました。山本信供はあの有名な武田信玄の軍師山本勘助の息子とされ、山本勘助(二代目)や、山本勘蔵と名乗っていたとも言われています。山本勘助が第四次川中島の合戦で討死すると、山本信供は山本十左衛門尉(妻が山本勘助の娘)に後見され育てられた様です。元服後、山本家を継ぎ山本勘助(二代目)も継いだようで […]

原昌胤の墓(愛知県)

原昌胤の墓の感想 山縣昌景の墓たちから少し進み、途中、小道を登り小幡信貞・小幡一族の墓を通り過ぎで丘の頂上付近の畑の中に『原昌胤の墓』がありました!(^▽^)/ 原昌胤は武田二十四将のひとりでもあり、しかも武田二十四将にはもう一人原虎胤が存在しています。両名とも『原』であり『胤』が付くため同一族の様に思われますが、原昌胤は美濃国出身で美濃土岐氏の流れを組む一族と云われ、もう一人の原虎胤は下総(しも […]

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