お城

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丸亀城 / 蓬莱城(香川県)

丸亀城の感想 すごく有名なお城ですね!現存12天守(現存天守)の一つ丸亀城です♪♪♪またの名を蓬莱城(ほうらいじょう)と云うみたいですね!? 現在の丸亀城は(個人的に)『魅せるお城』っぽく感じます。調べてみると丸亀城の改修は豊臣政権が四国を支配し、入国した生駒氏や、その後、山崎氏が行ったようで、丸亀城の築城は奈良元安なる人物らしく『奈良氏って誰???』的に思う人も多いでしょうが、奈良氏はあの『忍城 […]

屋嶋城(香川県)

屋嶋城の感想 屋嶋城は『やしまじょう』『やしまのき』と呼ばれる城で、私もよくは知らなかったですが、『白村江の戦い』で唐・新羅連合軍と滅ぼされた百済を復興しようとする日本・百済遺民の連合軍がぶつかった合戦で日本・百済遺民の連合軍は唐・新羅連合軍に大敗し、大敗した大和朝廷が日本の防衛ラインとして対馬~畿内一帯に築いたのが『古代山城』と呼ばれ、福岡の『筑前大野城』もそのひとつらしく、対馬~畿内一帯で30 […]

鞆城(広島県)

鞆城の感想 『鞆城(ともじょう)』は現在の広島県福山市にある『鞆の浦』と云うめちゃくちゃ雰囲気のいい港町の面影を残した場所にあります。私は広島出身なのですが『鞆の浦』と云えば昔から古き良き港町のイメージがあり、今でも是非皆様に行って欲しいスポットのひとつです!!!(^▽^)/ 『鞆城』を私が知ったのは、戦国時代、織田信長に京を追い出され足利義昭が毛利氏を頼って辿り着いた場所がここ鞆の浦と云われてい […]

手島屋敷跡(広島県)

手島屋敷跡の感想 木村城のすぐ近くに『手島屋敷跡』があります♪『手島屋敷』はかって『西殿(にしんどん)屋敷』と呼ばれており、竹原小早川家の居館であったようです。(戦になり籠城する時は木村城を詰城として使っていたんじゃないかと思います) 竹原小早川氏の当主となった小早川隆景が、1550年に本家の沼田小早川家も継ぐことになり、沼田小早川家の本城の高山城に入城した際に家臣の手島氏がこの屋敷を賜り受け継い […]

木村城(広島県)

木村城の感想 『木村城』は、相模国を本拠地としていた桓武平氏の土肥氏であった土肥実平が源頼朝に支え、源平の合戦後土肥実平の子遠平が安芸国沼田(ぬた)荘の地頭職となり拝領し、これを譲られた養子の影平が安芸国に移住した事から始まります。土肥氏は出身の相模国早河荘から名をとって土肥氏から小早川氏と名を変えたらしく、当初は沼田川が流れる場所に『高山城』を築き本城としたが、1258年に本城だった本郷沼田庄の […]

高山城(広島県)

高山城の感想 高山城は相模国早河荘に所領を持っていた土肥実平が、安芸国沼田荘に地頭として入部したことに始まるり、早河荘からの地名から『小早川』と名乗ったのが始まりとされたと云われています。1206年に小早川茂平が高山城を築き居城としたとされ、後に茂平の三男、小早川雅平が沼田荘を引き継ぎ本家筋とし、四男の小早川政景が都宇竹原荘へ移り住み分家として木村城を築いたとされています。のちに本家の『沼田小早川 […]

桜尾城(広島県)

桜尾城の感想 桜尾城が築城された当時は三方を海に囲まれた複郭式の海城だったと云われています。調べてみると江戸時代までは手付かずの状況であったらしいのですが、近代になってから埋立地が広がり住宅地も整備され、面影も何も無くなっています・・・(´;ω;`)ウゥゥ 桜尾城は1221年に後鳥羽上皇と鎌倉幕府の執権だった北条義時との争いが起きた承久の乱(じょうきゅうのらん)後に、鎌倉幕府の要人だった藤原親実が […]

須々万沼城 / 沼城(山口県)

須々万沼城の感想 須々万沼城 (すすまぬまじょう)は、毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢(大内方)に勝利し、防長二か国を本格的に侵攻した際(防長経略)に、鞍掛山城(くらかけやまじょう)の戦い(鞍掛合戦)に続く激戦となった場所がこの須々万沼城 (すすまぬまじょう)です!( `ー´)ノ 須々万沼城 は三方を沼地に囲まれた城で、見た目よりもかなり攻めずらい城だった様です。大内氏の […]

若山城 / 富田若山城 / 周防若山城(山口県)

若山城 / 富田若山城 / 周防若山城の感想 『若山城』は大内氏の重臣『陶氏』の本城として1470年に、陶弘護(すえ ひろもり)が築城したものと考えられています。私が『若山城』を知ったのは陶晴賢の居城としてでした。陶氏は大内氏の一族であり、第斎周防国の守護代を務める重臣であり、陶弘護→陶興房→陶隆房(のちに主君の大内義隆を殺し陶晴賢に名を変えます)となるのですが、陶氏は大内家にとっての大きな柱の一 […]

築山館 / 築山御殿(山口県)

築山館 / 築山御殿の感想 築山館/築山御殿はこは大内家28代当主の大内教弘(のりひろ)の頃に建てられた館みたいです。築山館は大内氏の迎賓館的な館とされていたみたいで、庭園を備えて80間四方を土塁で囲み、その外面は大石をたたみあげられていたと云われています。中世の連歌師宗祇は『池はうみこずゑは夏の深山かな』と詠まれており、この句からかっては豪華絢爛な庭園があった様子が想像できますね。。。築山館は大 […]

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