都城/都之城/鶴丸城の感想 都城は北郷義久によって1375年に築城されました。北郷氏は島津家第4代当主の島津忠宗の子、島津資忠(しまづすけただ)から始まります。都城市周辺の地域をもらい北郷氏を名乗り、この地で約240年領有を続けます。江戸時代に入り、北郷氏はまた島津姓に戻したことで都城島津家とも言われます。都城市周辺は戦国時代領地の取り合いで目まぐるしく城主が入れ替わっているお城が多いので周辺のお […]
六ヶ村城/六ヶ城の感想 六ヶ城と書いて「ろっかんじょう」と読みます。六ヶ村城と村が入った場合は何て読むのかわかりません😅 そのまま「ろっかんじょう」ですかね?「ろっかんむらじょう」?? まぁ読み方はそのくらいにして、六ヶ村城についてですが、1533年に北郷忠相(ほんごうただすけ)が伊東氏に対抗するために三俣城・月山日和城を攻撃する一時的な城として築いたとされているようです。都城周辺 […]
姫木城の感想 姫木城は「ひめぎじょう」と読みます。説明版を読むと、肝付氏の支城だったとのことです。肝付氏は南北朝時代に南朝方に属したので、北朝方の守護代だった森行重とここで戦闘になったとのことです。その後姫木城がどうなったのかは不明とのことでいつ築城されていつ廃城になったのかよくわかっていないようです。1339年には肝付兼重が日向から畠山氏に負けて追い出されているので遅くともこの頃には肝付氏のお城 […]
祝吉御所跡/島津氏発祥の地の感想 祝吉御所跡は「いわよしごしょあと」と読みます。島津氏といえば薩摩(鹿児島)イメージが強いですが島津家初代、惟宗忠久(これむねただひさ)が館を建てたのがこの場所となります。惟宗忠久は1185年8月に源頼朝に島津御荘下司職を命ぜられます。この職は現場担当的な役職となりますので平社員として派遣されたといっても間違いじゃないかもしれないですね。その後すぐに地頭職に命ぜられ […]
樺山城/小鷹城/雄鷹城の感想 樺山城は「かばやまじょう」と読みます。現在は上米公園(かんめこうえん)となっていて曲輪などの遺構が残っています。樺山城ははっきりとした築城年がわかっていないようで、伊東氏が築城したという話もあるようですが、現在の遺構として残っている城跡(曲輪)などは慶長4年(1599年)に起こった庄内の乱のときに伊集院氏が整備しものと推定されているようです。樺山城とつくので樺山氏が築 […]
梶山城の感想 梶山城は1352年に樺山氏が築城したとされているお城です。樺山氏は島津家の支流にあたる家系。島津家代4代当主島津忠宗の五男だった「島津資久」が樺山周辺の領地をもらったことにより樺山氏を名乗るようになります。その後経緯はよくわかりませんが、樺山氏から同じ島津家の支流ではありますが北郷氏のお城に変わり梶山城は1394年に梶山合戦という戦いがおこります。この戦いは北郷氏(島津家)対今川氏( […]
北郷久秀・忠道の墓の感想 梶山城の麓に北郷久秀・忠道のお墓があります。ここには大昌寺というお寺があった所で二人が戦死した後に二人の父、「北郷義久」が建立したとされております。現在はお寺もなくなり、大昌寺跡にひっそりと二人のお墓があります。 北郷久秀・忠道ですが、二人は北郷義久の三男と四男にあたる兄弟になります。また北郷家は島津家の支流にあたる家系で、都城島津家とも言われます。南北朝時代末期(厳密に […]
七浦城の感想 七浦城(ななうらじょう)は菊池竹光という武将が畠山氏の三俣城(松尾城)に対峙する城として使用していたとのことです。畠山氏は北朝方、足利将軍家の一門で足利氏の支流にあたる家系の武将になります。菊池武光は南北朝時代の武将で、南朝方として九州南朝方の最盛期を築き上げた名将と言われているそうです。あまりこの時代詳しくは知らないのですが、調べてみると北朝方の一色範氏(いっしきのりうじ)などの一 […]
松尾城/三俣城の感想 松尾城(まつおじょう)、三俣城(みまたじょう)と呼ばれます。松尾城は宮崎県延岡市にもあり、鹿児島県まで広げると志布志市にもあるのでここでは三俣城と呼ばせていただきます。 三俣城は肝付兼重(きもつきかねしげ)が築城したと言われているみたいですが、築城年は正確にはわかっていないようです。また、月山日和城と三俣城どちらが肝付兼重が築城したお城かも明確ではないみたいですね。なのでどち […]
飛山城の感想 飛山城は勝山城同様に鬼怒川沿いにある平山城で、鎌倉時代の後期に宇都宮氏の家臣だった芳賀氏の居城で、1293年~1299年頃、宇都宮景綱の家臣 芳賀高俊にって築かれた城だと云われています。芳賀氏は益子氏(益子城)と同様に『紀清両党(きせいりょうとう)』と呼ばれた、宇都宮氏の家臣団の中で精鋭武士団の両氏とされていた様で、『紀』→益子氏の本姓『紀氏』から『清』→芳賀氏の本姓『清原氏』からそ […]