孤高の反逆児ポンタ

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土屋昌続(昌次)討死の地(愛知県)

土屋昌続(昌次)討死の地の感想 土屋昌続(昌次)は武田二十四将のひとりとされ、金丸寅義の次男として生まれ平八郎と名乗っていたが、成長とともに武田信玄から『昌』の文字を貰い『金丸昌続(昌次)と名乗り、後に真田昌幸・三枝昌貞・曽根昌世・甘利昌忠・長坂昌国らと『奥近習六人衆』とされる信玄直属の若手側近として活躍する。初陣は真田昌幸と同じ第四次川中島の合戦であったため(一番激しい戦い)真田昌幸と共に武田信 […]

長篠・設楽原古戦場(愛知県)

長篠・設楽原古戦場の感想 『長篠の戦い』や『長篠・設楽原の戦い』と言われる歴史を変えた合戦と云われる古戦場です。 歴史的には鉄砲を本格的に活用した初の合戦になっていて、織田・徳川連合3万8千と最強武田軍1万5千がぶつかり合った合戦で、武田軍は最強と言われた騎馬軍団を活用した戦術に対し、織田・徳川連合軍は長篠城の手前の設楽原の地に布陣することとなり、小川や沢に沿って丘陵地が南北にいくつも連なる設楽原 […]

鳥居強右衛門の墓(愛知県)

鳥居強右衛門の墓の感想 鳥居強右衛門の磔地から徒歩で10分の新昌寺に磔にされ殺された『鳥居強右衛門の墓』があります。駅名も鳥居駅が近くにあり、この鳥居強右衛門は三河武士として地元の人には誇られているような気がします。鳥居氏は当初は奥平家の直臣ではなく陪臣だったらしく、鳥居強右衛門が長篠城に参戦したのは36歳であったと云われています。この長篠城の戦いの際に援軍で駆けつけた織田信長も、長篠城の味方全員 […]

鳥居強右衛門の磔地(愛知県)

鳥居強右衛門の磔地の感想 武田信玄が亡くなって3年後、喪に伏せていた武田軍が三河に侵攻し東三河の重要拠点であった長篠城(500人が籠城)を1万5千の大軍で囲い込んでしまう。当初は長期の籠城戦に備えていた長篠城側ではあったが、武田軍が放った火矢が食糧倉庫に引火し火事となり食料を焼き尽くしてしまう。慌てた長篠城側は徳川家康に援軍を急ぐように使者を立てるが、その時に使者として自ら志願したのが『鳥居強右衛 […]

長篠城(愛知県)

長篠城の感想 とても有名な城ですね!歴史のターニングポイント!トリガーとなる時代の重要な城です。 『長篠城』です!!!!! 長篠城は菅沼氏が築城したといわれ、主に松平氏の居城としていました。長篠城は豊川と宇連川が合流する天然の要害を要し、信濃国・遠江国・三河国への街道に繋がる交通の要所でもある重要な城だったことがわかります。武田信玄が西上作戦を実施、長篠城もその勢いに呑まれていき当時城主であった菅 […]

新羅三郎義光公御菩堤所・源義光(山梨県)

新羅三郎義光公御菩堤所の感想 『新羅三郎義光公御菩堤所』は1127年、甲斐源氏の始祖である新羅三郎義光(源義光公)の菩提を弔うためにその子義清によって創立された菩提寺です。当初は天台宗のお寺で高根町にあったようですが、1430年に現在地に移転し曹洞宗に改宗したようです。現在の場所を説明すると中央自動車道須玉バイパスから国道141号を清里方面に上ってすぐ左側に見えます。甲斐武田氏のスタートとなった […]

小山城(山梨県)

小山城の感想 山梨県笛吹市八代町にある小城の小山城です。一応、笛吹市指定史跡に指定されていますが・・・草ボーボーですわ!(´;ω;`)ウゥゥ 小山城の築城ははっきりしていないようですが、1459年(宝徳2年)ごろには河内領を有する穴山氏の穴山伊豆守がこの城に入城していたらしく、同族の武田信重と敵対していたとされています。甲斐盆地の南東に位置する小山城は若彦路と鎌倉街道に隣接する交通の要衝で、小山城 […]

有馬晴信の謫居/自害の跡(山梨県)

有馬晴信の謫居(たっきょ)/自害の跡の感想 少し歴史に詳しい人からすれば違和感を感じるかもしれません。有馬晴信は九州の武将で、肥前国日野江藩初代藩主であり九州動乱の中で勢力を拡大した大名のひとりです。叔父に大村純忠がいるなどキリシタン大名として有名です。(当初は有馬晴信はキリシタンを毛嫌いしていたのですが途中で洗礼を受けキリシタン大名になったらしいですね) 当初は肥前守護職の大友宗麟に従い勢力を拡 […]

武田勝頼(夫人/信勝 )生害石(山梨県)

武田勝頼(夫人/信勝 )生害石の感想 前回の武田勝頼/夫人/信勝の墓からの流れで、同じ景徳院内に3名の生害(自害)した場所があります。3名がお互いに生害石(その石の上に座って自害した場所)がありました。何とも言えない気持ちが湧き出てきて、苦しさがたくさんあったと思うのですが、その時の疲れと諦めと切なさと・・・複雑な気持ちが入り乱れていたと容易に想像がつきます。 是非!皆さんも足を運んで感じて頂けれ […]

武田勝頼公(夫人/信勝)の墓(山梨県)

武田勝頼公(夫人/信勝)の墓の感想 前回の続きから・・・織田軍の総攻撃に未完の新府城を焼き払い撤退を余儀なくされた武田勝頼は、当初、親族の小山田信茂の岩殿城を目指し共に撤退を行うが、途中、この小山田信茂に裏切られ岩殿城への入城(小山田領地への入国?)を拒否されてしまうため、武田家とゆかりのある天目山棲雲寺(せいうんじ)を目指し、この甲州街道(国道20号線)から外れ現在の県道218号線の日川沿いを進 […]

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