孤高の反逆児ポンタ

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源平屋島合戦/屋島古戦場(香川県)

源平屋島合戦/屋島古戦場 『屋嶋城』を目指し登っていくと、源平の合戦の際に多くのドラマを生んだ『源平屋島合戦/屋島古戦場』を見下ろせる場所があります!!!『源平屋島合戦/屋島古戦場』は、平安時代後期に勃発した『源平合戦』のうち、1185年に讃岐国の屋島(現在の香川県高松市)で行なわれた合戦です。源氏の勢いに天下を治めていた平家は連戦連敗を繰り返し平家一門は都落となってしまいます。平家が西国へと逃げ […]

屋嶋城(香川県)

屋嶋城の感想 屋嶋城は『やしまじょう』『やしまのき』と呼ばれる城で、私もよくは知らなかったですが、『白村江の戦い』で唐・新羅連合軍と滅ぼされた百済を復興しようとする日本・百済遺民の連合軍がぶつかった合戦で日本・百済遺民の連合軍は唐・新羅連合軍に大敗し、大敗した大和朝廷が日本の防衛ラインとして対馬~畿内一帯に築いたのが『古代山城』と呼ばれ、福岡の『筑前大野城』もそのひとつらしく、対馬~畿内一帯で30 […]

鞆城(広島県)

鞆城の感想 『鞆城(ともじょう)』は現在の広島県福山市にある『鞆の浦』と云うめちゃくちゃ雰囲気のいい港町の面影を残した場所にあります。私は広島出身なのですが『鞆の浦』と云えば昔から古き良き港町のイメージがあり、今でも是非皆様に行って欲しいスポットのひとつです!!!(^▽^)/ 『鞆城』を私が知ったのは、戦国時代、織田信長に京を追い出され足利義昭が毛利氏を頼って辿り着いた場所がここ鞆の浦と云われてい […]

竹原小早川家墓地(広島県)

竹原小早川家墓地の感想 竹原小早川家の墓地が手島屋敷跡のすぐ近くにありました( `ー´)ノ そこには『竹原小早川家墓地』の案内板があり、それによると・・・『宝篋印塔約10基、五輪塔約20基ほどある様です。あらためて木村城の西北の方角にあたる場所にあり竹原小早川家の墓所として間違いないようです。。。殆どが中世末期の様式らしく、墓所から一段高い尾根上にある二基の宝篋印塔は、小早川隆景(毛利元就の三男) […]

手島屋敷跡(広島県)

手島屋敷跡の感想 木村城のすぐ近くに『手島屋敷跡』があります♪『手島屋敷』はかって『西殿(にしんどん)屋敷』と呼ばれており、竹原小早川家の居館であったようです。(戦になり籠城する時は木村城を詰城として使っていたんじゃないかと思います) 竹原小早川氏の当主となった小早川隆景が、1550年に本家の沼田小早川家も継ぐことになり、沼田小早川家の本城の高山城に入城した際に家臣の手島氏がこの屋敷を賜り受け継い […]

木村城(広島県)

木村城の感想 『木村城』は、相模国を本拠地としていた桓武平氏の土肥氏であった土肥実平が源頼朝に支え、源平の合戦後土肥実平の子遠平が安芸国沼田(ぬた)荘の地頭職となり拝領し、これを譲られた養子の影平が安芸国に移住した事から始まります。土肥氏は出身の相模国早河荘から名をとって土肥氏から小早川氏と名を変えたらしく、当初は沼田川が流れる場所に『高山城』を築き本城としたが、1258年に本城だった本郷沼田庄の […]

高山城(広島県)

高山城の感想 高山城は相模国早河荘に所領を持っていた土肥実平が、安芸国沼田荘に地頭として入部したことに始まるり、早河荘からの地名から『小早川』と名乗ったのが始まりとされたと云われています。1206年に小早川茂平が高山城を築き居城としたとされ、後に茂平の三男、小早川雅平が沼田荘を引き継ぎ本家筋とし、四男の小早川政景が都宇竹原荘へ移り住み分家として木村城を築いたとされています。のちに本家の『沼田小早川 […]

桜尾城(広島県)

桜尾城の感想 桜尾城が築城された当時は三方を海に囲まれた複郭式の海城だったと云われています。調べてみると江戸時代までは手付かずの状況であったらしいのですが、近代になってから埋立地が広がり住宅地も整備され、面影も何も無くなっています・・・(´;ω;`)ウゥゥ 桜尾城は1221年に後鳥羽上皇と鎌倉幕府の執権だった北条義時との争いが起きた承久の乱(じょうきゅうのらん)後に、鎌倉幕府の要人だった藤原親実が […]

  • 2025.01.19

友田興藤の墓(広島県)

友田興藤の墓の感想 友田氏はもともとは佐伯氏だった様ですね。安芸国佐西郡桜尾城主であったとされ、後に友田村に住み友田氏と名乗ったようです。友田氏は代々厳島神社に関わり合いを持ちながら、大内義興と共に京に上り西軍側として戦っているが1518年に大内義興と共に友田興藤も帰国した際に、大内義興に神主職の裁定を愁訴したみたいですが、大内義興は桜尾城や己斐城に城番を送り込んで神領(厳島神社領)を接収してしま […]

陶晴賢の墓(広島県)

陶晴賢の墓の感想 陶晴賢は、周防国・長門国を中心に石見国、豊前国、筑前国を支配した大内氏の重臣を代々務めている大内氏の一族で、父である陶興房(実は養父)の跡を継ぎ、大内義隆の重臣として大内家の屋台骨(特に軍事方面)を支えた武将です。当時は陶隆房(大内義隆から一字もらい受けて)と名乗っていました。 主君である大内義隆が出雲遠征(尼子討伐)に失敗すると、大内義隆は軍事面に無関心となり文化や宴などに没頭 […]

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