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神奈川県のお城やその武将などにまつわる場所を表示しています。

大江広元邸址(神奈川県)

大江広元邸址の感想 『大江広元邸址』屋敷は、大江広元のお墓がある山の下にある明王院の向かい側、『明石橋』の交差点の所に滑川が流れていますが、その滑川沿いに屋敷があったものと思われます。 『大江広元邸址碑』にはこぉ書かれていました・・・(=゚ω゚)ノ『大江氏 奕世(えきせい:累代)学匠として顕(あらわ)る 嘗(かっ)て匡房(まさふさ) 兵法を以て義家に授く 広元は其の匡房の曽孫(ひまご)なり 頼朝に […]

伝 大江広元の墓(神奈川県)

伝 大江広元の墓の感想 大江広元は毛利元就の祖として、私とかはとても重要な人物と考えていました。(毛利元就も一時、幕府側に出す書状に大江元就と記載していたことがあります) 大江広元は京都の儒学を専門とする京都で朝廷に務める下級貴族だった中原広季の養子となったとあります。大江広元もその時は中原広元と名乗っていたようですね。途中、1216年にあらためて大江広元と改めた様です。京都にいたころ、兄の中原親 […]

源頼朝の墓(神奈川県)

源頼朝の墓の感想 源頼朝の墓は、鎌倉市の白旗神社の高台にあります。源頼朝は皆さん知っての通り初代『鎌倉殿』で貴族の世の中から武家の世の中に最初に導いた人です。源平の合戦や義経の追討など一番最初に知った武家社会の政治家のようなイメージがありますね。そんな源頼朝の最後(死に方)は、1198年の12月27日に相模川の橋供養からの帰路中の稲村ガ崎で落馬し、その落馬が原因で翌年の1199年1月13日に亡くな […]

  • 2025.08.13

扇谷上杉菅領屋敷跡(神奈川県)

扇谷上杉菅領屋敷跡の感想 後に・・・山内上杉氏と勢力を二分し太田道灌と共に南関東、及び、駿河一帯まで勢力を拡大する扇谷上杉氏の館があった場所になります。その後、この地から河越に居城を移し河越城を築いたものと思われます。 上杉顕定という武将が上杉藤成の子として生まれ、後に上杉朝定の養子となります。南北朝時代に入ると上杉顕定は二代目の鎌倉公方となった足利氏満に仕え、扇ガ谷に屋敷を構えたことから扇谷上杉 […]

北条政子の墓(神奈川県)

北条政子はまたの名を平政子(たいらのまさこ)ともいい、平家の流れを組む一族だったと思わせますね。超!有名な人で日本で初の『尼将軍』と云ってもいい存在でしょうね。 源氏と平氏の争いが激化すると、平清盛に滅ぼされ伊豆に追放され流人だった源頼朝も出会うと、周囲の大反対を押し切って源頼朝の正妻となります!!! 強い意志を感じる女性ですね!源頼朝は女性にだらしないイメージなのですが、そのたびに源頼朝の浮気相 […]

源実朝の墓(神奈川県)

源実朝の墓の感想 源実朝の墓は寿福寺の奥の墓地にあります。 源実朝(みなもとのさねとも)は源頼朝と北条政子の次男として生まれました。(北条政子の墓も隣にあります。)源頼朝が亡くなると、長男の源頼家が鎌倉殿第二代目となり三年後に征夷大将軍となりますが、長男の頼家派である比企氏(ひきし)と次男の実朝を担ぐ北条氏との間で対立が始まり、北条氏が比企氏を滅亡させたため源頼家は伊豆の修善寺に送られ幽閉され暗殺 […]

玉縄北条氏供養塔(神奈川県)

玉縄北条氏供養塔の感想 玉縄城のすぐ近くにある龍寳寺(りゅうほうじ)に『玉縄北条氏供養塔』があります。もう少し奥に『北条家供養墓跡』があるのですが、チェーンがしてあったので今回は遠慮しておきました。。。また次回訪問してみようと思います。 北条氏とは別に玉縄北条氏として別枠を作っているのは、北条綱成(北条綱成は北条氏綱の子供ではありません。今川家の家臣、福島正成の子とされており、北条氏綱が北条綱成に […]

玉縄城 / 甘縄城(神奈川県)

玉縄城の感想 玉縄城はずっと行ってみたかった城です!残念ながら玉縄城全体は住宅地と本丸には中学校が建設されており全体を楽しむことはできません(´;ω;`)ウゥゥ しかし、相模国の支配を始めた北条早雲にとっては、この鎌倉の北に位置する玉縄城は鎌倉を管理をするためにも重要な役割を果たさせる城でなかったのではないかと思います( `ー´)ノ 玉縄城は北条早雲が1512年に築いた城だと云われていますが、もと […]

松田城(神奈川県)

松田城の感想 松田城・・・とても行きたかったお城です! 松田城に興味があったのは『箕輪 諒』さんの著書『最低の軍師』って本で、上杉謙信軍が臼井城を攻めたのですが、謎の軍師と言われる『浄三』こと『白井 胤治』と、もう一人の主役『松田孫太郎』が大活躍する歴史小説で、上杉来襲に備え後北条が援軍として送ってきたのは松田孫太郎率いるわずか250名あまりの援軍でした。しかし、この謎の軍師『白井 胤治』と阿修羅 […]

源実朝公御首塚(神奈川県)

源実朝公御首塚の感想 三代目の鎌倉殿(鎌倉幕府第三代目征夷大将軍)である源実朝がこの秦野市に『首塚』がありました。実朝は兄の頼家が追放されると12歳で鎌倉殿となり執権の北条氏に支えられ成長していきます。源実朝は朝廷に重んじられ官位の昇進も早く、若くして公卿(くぎょう)に補任され、その後、武士として初めて右大臣に任じられ京との繋がりも強くなります。1219年、鶴岡八幡宮で右大臣昇進の拝賀の式後、追放 […]

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