堀切

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花園城(埼玉県)

花園城の感想 花園城は1156年~1159年頃に藤田政行(←元々は猪俣正行と名乗っていて藤田荘に入り藤田氏を名乗った様です)により築城されたとされたいます。そして・・・江戸時代末期に編纂された『新編武蔵風土記考』によりますと!?『花園城』は藤田氏15代が在城したと記されている様です!?(@_@)!?!?すごっ!!!!この藤田氏もなかなかで・・・(o^―^o) 藤田氏は『武蔵七党』のひとつ『猪俣党』 […]

高見城 / 四ツ山城 / 四津山城(埼玉県)

高見城 / 四ツ山城 / 四津山城の感想 高見城 / 四ツ山城の築城年代や築城者は不明ですが、太田道灌が1480年に書いた書状に『高見』『高見在番衆』というのがあったらしく、その名が登場することからこの年頃には築かれていたんじゃないかなぁ~!?!?って云われています(〃艸〃)ムフッ現在の小川町駅(東武東上線?)から約3.5km北方面、比企丘陵(ひききゅうりょう)最北部の丘陵部・四津山(標高197m […]

青山城 / 割谷城(埼玉県)

青山城 / 割谷城の感想 青山城 / 割谷城は、青山と下里の大字境に位置しており、青山側は『青山城』と呼ばれ、下里側は『割谷城』と呼ばれていた様です。青山城/割谷城は山城自体に大きな仕掛けがある感じではなく、標高265mの山頂に築かれており、山頂の尾根を利用した山城でそれぞれの郭は堀切で防衛されているシンプルな山城のイメージでした。少し離れますが、尾根をたどっていけば小倉城に辿り着くことができ、扇 […]

茅ヶ崎城(神奈川県)

茅ヶ崎城の感想 茅ヶ崎と聞けば・・・『サザン』『夏』『海岸線』的なイメージじゃないですか!(〃艸〃)ムフッなのに!なのに!ですが・・・めちゃくちゃ内陸側(現在の港北ニュータウン近く)で見つけたのがこの城です・・・『茅ヶ崎城』です(^▽^)/~♪♪♪ 現在は公園になっていますが、行ってみて( ゚Д゚)びっくり!?なかなかガチでいけている城跡でしたよ!!!こんな都心っていうか住宅地で最高でした! 行っ […]

丸子城(静岡県)

丸子城の感想 丸子城はまりこじょうと読みます。なので別名で鞠子城とも呼ばれるみたいです。その他にも別名が多いお城で宇津谷城、三角城、赤目ヶ谷砦とも呼ばれるそうです。 丸子城はとても行きたかったお城の一つで、築城当時は今川氏のお城で今川氏の家臣斎藤安元が築城したと言われております。その後、武田信玄の侵攻で武田氏側の城となり、武田氏らしいお城として改修されており、三日月堀や馬出しなど武田信玄らしい部分 […]

花倉城 / 花蔵城 / 葉梨城(静岡県)

花倉城 / 花蔵城 / 葉梨城の感想 『花倉城』は『花蔵城』『 葉梨城(はなしじょう)←知らんかった~!!!苦笑』って云うみたいですねぇ~((´∀`*))ヶラヶラ♪ 『花倉城』は静岡県中部にある標高297mの城山?に築かれた山城ですね!それこそ!今川範氏によって1353年頃に築城されたと云われているみたいですねぇ~!!!うん!うん!夢がある!!!!花倉城は、南北に伸びる山頂稜線に堀切を設け二分し! […]

大友別館跡(大分県)

大友別館跡の感想 現在の大分県津久見市にあるのが『大友別館』と呼ばれる跡です。一時九州を席巻しキリシタン大名として名高い大友宗麟の終焉の地となる館跡とされています。九州北部に覇を唱えていた大友宗麟は1578年に『高城川・耳川の合戦』で南九州の雄 島津氏に大敗すると、次第に島津氏に領土を蚕食されるようになります。にっちもさっちもいかなくなった大友宗麟は、1586年に豊臣秀吉謁見し秀吉に臣従することで […]

松井田城(群馬県)

松井田城の感想 群馬県の松井田町にある松井田城へ行ってきました。みなさん行かれる際は2点注意して行かれるようにしてください。まず、1点目「熊」に対してです。音を出す「熊よけの鈴」、もしあれば熊撃退スプレーを持っていると良いかと思います。もし鈴など持たずに行かれた場合は必ず入り口に「お菓子の缶」と「木の枝」を置いてくれていますのでこちらで音を出しながら登るようにしてください。次に2点目は冬以外に行か […]

臼井城(千葉県)

臼井城の感想 臼井城は千葉氏の家臣臼井氏の居城だったところです。あまり人が来るお城ではありませんが、上杉謙信が唯一負けた戦いと言われているのがこの「臼井城の戦い」とあと「生野山の戦い」の2つと言われています。臼井城の戦いは、1565年に後北条氏の北条氏康と関東管領だった上杉謙信の関東を巡る領有権争いの戦いの一つです。実際に戦っていたのは北条氏側が原氏で上杉謙信側が里見氏と謙信自身になります。臼井城 […]

小幡城(茨城県)

小幡城の感想 出会いは偶然でした・・・佐竹義重・義宣親子を調べてて、常陸国を治めるにあたって居城だった太田城から水戸城へ移す際に、秀吉の天下の中、未だ従わなかった常陸国の武将たちを太田城に呼び、騙し討ちで皆殺しにした(中には逃げ出せた武将もいましたが後で滅ぼされています)話が合って、その対象が『南方三十三館(なんぽうさんじゅうさんだて、なんぽうさんじゅうさんやかたと呼ぶみたい)』となり、鹿島・行方 […]