江戸時代

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曽我城 / 曽我氏館跡(神奈川県)

曽我城 / 曽我氏館跡の感想 曽我城/曽我氏館跡は、曽我祐信の居城で鎌倉時代初期にかけて武士・御家人で相模国曽我荘の領主であり、曽我祐信はあの有名な『曽我兄弟』の養父としても有名ですよねぇ~(o^―^o)曽我兄弟と云えば『曽我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)』であり、これは源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曽我祐成と曽我時致の兄弟が父親である河津 祐泰(かわづ すけやす)の仇である工藤佑経を […]

宇喜田秀家潜居跡平野屋敷(鹿児島県)

宇喜田秀家潜居跡平野屋敷の感想 宇喜田秀家は宇喜田直家の嫡男で関ヶ原の戦いで西軍側として戦った武将になります。宇喜田秀家の正室は豪姫(ごうひめ)で映画にもなったので知っている方もいらっしゃるのではないかと思います。ちなみに宇喜田秀家の居城は岡山城になります。豪姫は加賀藩(石川県)の大名前田利家の四女になります。 宇喜田秀家は西軍の副大将として参戦し、西軍が敗れたので関ヶ原から伊吹山に逃走します。そ […]

都城/都之城/鶴丸城(宮崎県)

都城/都之城/鶴丸城の感想 都城は北郷義久によって1375年に築城されました。北郷氏は島津家第4代当主の島津忠宗の子、島津資忠(しまづすけただ)から始まります。都城市周辺の地域をもらい北郷氏を名乗り、この地で約240年領有を続けます。江戸時代に入り、北郷氏はまた島津姓に戻したことで都城島津家とも言われます。都城市周辺は戦国時代領地の取り合いで目まぐるしく城主が入れ替わっているお城が多いので周辺のお […]

樺山城/小鷹城/雄鷹城(宮崎県)

樺山城/小鷹城/雄鷹城の感想 樺山城は「かばやまじょう」と読みます。現在は上米公園(かんめこうえん)となっていて曲輪などの遺構が残っています。樺山城ははっきりとした築城年がわかっていないようで、伊東氏が築城したという話もあるようですが、現在の遺構として残っている城跡(曲輪)などは慶長4年(1599年)に起こった庄内の乱のときに伊集院氏が整備しものと推定されているようです。樺山城とつくので樺山氏が築 […]

梶山城(宮崎県)

梶山城の感想 梶山城は1352年に樺山氏が築城したとされているお城です。樺山氏は島津家の支流にあたる家系。島津家代4代当主島津忠宗の五男だった「島津資久」が樺山周辺の領地をもらったことにより樺山氏を名乗るようになります。その後経緯はよくわかりませんが、樺山氏から同じ島津家の支流ではありますが北郷氏のお城に変わり梶山城は1394年に梶山合戦という戦いがおこります。この戦いは北郷氏(島津家)対今川氏( […]

松尾城/三俣城(宮崎県)

松尾城/三俣城の感想 松尾城(まつおじょう)、三俣城(みまたじょう)と呼ばれます。松尾城は宮崎県延岡市にもあり、鹿児島県まで広げると志布志市にもあるのでここでは三俣城と呼ばせていただきます。 三俣城は肝付兼重(きもつきかねしげ)が築城したと言われているみたいですが、築城年は正確にはわかっていないようです。また、月山日和城と三俣城どちらが肝付兼重が築城したお城かも明確ではないみたいですね。なのでどち […]

月山日和城/高城(宮崎県)

月山日和城/高城の感想 月山日和城は元弘年間(1331年~1334年)に肝付兼重(きもつきかねしげ)が築城したと言われているみたいですが、築城年は正確にはわかっていないようです。 肝付兼重は南朝方に付いていたので北朝方の足利尊氏が日向に送り込んできた畠山直顕(はたけやまただあき)に月山日和城を攻められ落城してしまいます。畠山直顕は月山日和城に入り城の名前を三股院高城(みまたいんたかじょう)と呼んだ […]

丹羽家御廟・陰墓(福島県)

丹羽家御廟・陰墓の感想 二本松藩主丹羽家のお墓がある『丹羽家御廟・陰墓』が曹洞宗巨邦山大隣寺にありました。『陰墓』とは奥様方の意味がある様です。丹羽氏は織田信長に仕え織田四天王のひとり、丹羽長秀が有名なのではないでしょうか?織田信長の下で数々の武功を挙げた丹羽長秀は若狭一国を与えられ、織田家臣団の中では一番最初に国持大名となった武将としても有名ですよね!武功も政治も長けていたんでしょうな~(*´ω […]

大多喜城(千葉県)

大多喜城の感想 大多喜城に行ってきました! 築城は真里谷(武田)信清が築城したお城で、里見氏が安房の統一を図るために苦心したお城で、私は正木時茂さんのお城だと思って期待していきましたが、地元は本多忠勝さんのお城として盛り上がっていました。その理由は・・・あとあと伝えるとして・・・ 大多喜城は元々『小多喜城』として築かれていたとされ、元々は『根古屋城/大多喜根古屋城』のひとつだった城(砦)が『小多喜 […]

新城/志和池新城(宮崎県)

新城/志和地新城 新城としか記載されていないですが、志和地城の新城に当たるので志和池新城と呼ばせていただきます。新城という名称の志和池城の曲輪の可能性もあるのかなと思いますが、ここでは志和池城と分けて紹介させていただきます。志和池城のところにあった案内板の通り、志和池城(本城)より後に作られたものと思われ、志和池城もそれほど高い場所ではないが志和池城の麓にあたる場所にあるので戦国時代末期から一国一 […]

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