原昌胤の墓(愛知県)
原昌胤の墓の感想 山縣昌景の墓たちから少し進み、途中、小道を登り小幡信貞・小幡一族の墓を通り過ぎで丘の頂上付近の畑の中に『原昌胤の墓』がありました!(^▽^)/ 原昌胤は武田二十四将のひとりでもあり、しかも武田二十四将にはもう一人原虎胤が存在しています。両名とも『原』であり『胤』が付くため同一族の様に思われますが、原昌胤は美濃国出身で美濃土岐氏の流れを組む一族と云われ、もう一人の原虎胤は下総(しも […]
原昌胤の墓の感想 山縣昌景の墓たちから少し進み、途中、小道を登り小幡信貞・小幡一族の墓を通り過ぎで丘の頂上付近の畑の中に『原昌胤の墓』がありました!(^▽^)/ 原昌胤は武田二十四将のひとりでもあり、しかも武田二十四将にはもう一人原虎胤が存在しています。両名とも『原』であり『胤』が付くため同一族の様に思われますが、原昌胤は美濃国出身で美濃土岐氏の流れを組む一族と云われ、もう一人の原虎胤は下総(しも […]
小幡信貞(信真)の墓 / 小幡一族の墓の感想 山縣昌景たちの墓の近く、黒畑阿弥陀堂がある道を小高い丘方面に上がっていくと斜面に平地があり、そこに『小幡(おばた)信貞(のぶさだ)(信真(のぶざね))の墓』及び『小幡一族の墓』があります。小幡氏といえば武田二十四将のひとりとして存在していますが、武田二十四将の小幡昌盛は当時、高坂(香坂)昌信(春日虎綱)とともに海津城(現在の松代城)に籠り、上杉謙信の川 […]
高坂昌澄の墓の感想 長篠・設楽原の合戦の前の長篠城の戦いの際に、酒井忠次軍に鳶ヶ巣山の守備隊が壊滅させられ、高坂昌澄が守る有海村駐屯軍へも襲い掛かられたため、高坂昌澄は討ち死にしたと云われています。因みに・・・父親は高坂虎綱で虎綱の長男だと云われています。高坂虎綱は上杉軍の南下に備え、長野市にある海津城(現在の松代城 )にいたため、父親の代理として長篠・設楽原の合戦に参戦していたようですね。。。 […]
山縣昌景 / 山縣昌次・名取道忠 / 高坂助宣 の墓の感想 長篠・設楽原古戦場のほぼ正面、たぶん武田軍が陣を引いてあっただろうと思われる小さな丘に、山縣昌景の墓があり、山縣昌景と共に、山縣昌次・高坂助宣の墓もありました。古戦場沿いの農道になるのかな?その道沿いに『山形(縣)の地名』の案内板があり、その横の細道40mに山縣塚としてあります。 山縣昌景 / 山縣昌次・名取道忠 / 高坂助宣 の墓画像ギ […]
甘利信康の墓の感想 長篠・設楽原古戦場のすぐ目の前に『甘利信康の墓(碑)』があります。 甘利って名前にピン!ってくる方もいらっしゃると思いますが、甘利信康は甘利虎泰の子であります、甘利虎泰のは『武田四天王』のひとりとして有名で、武田信玄を国主にするためにクーデターを企てたひとりで、その後も数多くの武功を上げていきます。残念なことに天文17年(1548年)には村上義清(むらかみ よしきよ)との間で起 […]
五味与三兵衛貞氏の墓の感想 武田勝頼が長篠・設楽原の合戦の際に布陣した場所を探していたら偶然発見できました。 『五味与三兵衛貞氏の墓』です!誰ですか?五味貞氏って???全く知らない武将のお墓を発見しちゃいました。案内板にある通り・・・『謎?』(。´・ω・)? 五味氏はもともと越後国の武将だったみたいで、浪人となり兄である五味長遠と共に五味与三兵衛(貞氏?若しくは、貞成、それとも高重???)は武田信 […]
土屋昌続(昌次)討死の地の感想 土屋昌続(昌次)は武田二十四将のひとりとされ、金丸寅義の次男として生まれ平八郎と名乗っていたが、成長とともに武田信玄から『昌』の文字を貰い『金丸昌続(昌次)と名乗り、後に真田昌幸・三枝昌貞・曽根昌世・甘利昌忠・長坂昌国らと『奥近習六人衆』とされる信玄直属の若手側近として活躍する。初陣は真田昌幸と同じ第四次川中島の合戦であったため(一番激しい戦い)真田昌幸と共に武田信 […]
長篠・設楽原古戦場の感想 『長篠の戦い』や『長篠・設楽原の戦い』と言われる歴史を変えた合戦と云われる古戦場です。 歴史的には鉄砲を本格的に活用した初の合戦になっていて、織田・徳川連合3万8千と最強武田軍1万5千がぶつかり合った合戦で、武田軍は最強と言われた騎馬軍団を活用した戦術に対し、織田・徳川連合軍は長篠城の手前の設楽原の地に布陣することとなり、小川や沢に沿って丘陵地が南北にいくつも連なる設楽原 […]
鳥居強右衛門の墓の感想 鳥居強右衛門の磔地から徒歩で10分の新昌寺に磔にされ殺された『鳥居強右衛門の墓』があります。駅名も鳥居駅が近くにあり、この鳥居強右衛門は三河武士として地元の人には誇られているような気がします。鳥居氏は当初は奥平家の直臣ではなく陪臣だったらしく、鳥居強右衛門が長篠城に参戦したのは36歳であったと云われています。この長篠城の戦いの際に援軍で駆けつけた織田信長も、長篠城の味方全員 […]
鳥居強右衛門の磔地の感想 武田信玄が亡くなって3年後、喪に伏せていた武田軍が三河に侵攻し東三河の重要拠点であった長篠城(500人が籠城)を1万5千の大軍で囲い込んでしまう。当初は長期の籠城戦に備えていた長篠城側ではあったが、武田軍が放った火矢が食糧倉庫に引火し火事となり食料を焼き尽くしてしまう。慌てた長篠城側は徳川家康に援軍を急ぐように使者を立てるが、その時に使者として自ら志願したのが『鳥居強右衛 […]