広島城/鯉城/在間城/当麻城(広島県)
広島城/鯉城/在間城/当麻城の感想 広島城は1589年に毛利元就に孫にあたる毛利輝元によって安芸国佐東郡(現在の広島市中区基町)にあった太田川の河口デルタ地帯に築かれた城です。当時は河口と海が繋がっていたので『浮城』っぽかったんじゃないかと思います(^▽^)/城の構造は大阪城を参考にしたと云われており、1592年には九州の名護屋城に向かう豊臣秀吉が広島城に立ち寄ったらしく、余談にはなりますが『広島 […]
広島城/鯉城/在間城/当麻城の感想 広島城は1589年に毛利元就に孫にあたる毛利輝元によって安芸国佐東郡(現在の広島市中区基町)にあった太田川の河口デルタ地帯に築かれた城です。当時は河口と海が繋がっていたので『浮城』っぽかったんじゃないかと思います(^▽^)/城の構造は大阪城を参考にしたと云われており、1592年には九州の名護屋城に向かう豊臣秀吉が広島城に立ち寄ったらしく、余談にはなりますが『広島 […]
法勝寺城 / 尾崎城の感想 法勝寺城は、わりと早い時期から西伯耆国の要として城は築城されていたらしいです。。。この地域一帯は山名氏が支配をしており、築城者はわかりませんが山名満幸(山名師義(やまなもろよし)の四男)が築城したと云われており、山名満幸は丹後国・出雲国・隠岐国・伯耆国の守護大名だったと云われるので、西の要として勢力を持っていたと思われますね。何やら調べると・・・1481年頃、伯耆国の守 […]
尾崎寺城主 毛利本紹主従の墓の感想 法勝寺城の麓にお墓がありました。法勝寺城の城攻め前にふらっと寄ってみました。 『尾崎寺城主 毛利本紹主従の墓』です<(`^´)> すごく謎だなぁ~って困惑しています。 先ず、毛利本紹って誰なんでしょ?毛利元就の子供には存在しません。毛利輝元(毛利元就の孫)にもそんな子息は存在していません。毛利元就の長男 毛利隆元の妻が大内氏の重臣 内藤氏の娘で、その […]
伝 毛利元秋の墓の感想 1552年、安芸国戦国大名の毛利元就の五男として生まれます。毛利元就の三兄弟(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)は有名ですが、四男の穂井田 元清(ほいだ もときよ)、五男の毛利元秋となり元秋は備後国(広島県北部)の有力国人の武将 三吉氏の出身の継室であるだった様です。 1566年に月山富田城で尼子義久が『降伏し落ちると、毛利元就の重臣の福原貞俊や口羽通良が在番しますが、どんど […]
伝 大江広元の墓の感想 大江広元は毛利元就の祖として、私とかはとても重要な人物と考えていました。(毛利元就も一時、幕府側に出す書状に大江元就と記載していたことがあります) 大江広元は京都の儒学を専門とする京都で朝廷に務める下級貴族だった中原広季の養子となったとあります。大江広元もその時は中原広元と名乗っていたようですね。途中、1216年にあらためて大江広元と改めた様です。京都にいたころ、兄の中原親 […]
安国寺恵瓊の墓の感想 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は毛利家の外交僧であり一説では豊臣政権下では秀吉に取り立てられ大名であったともされています。(異説ありますなぁぁぁ・・・・)安国寺恵瓊はなかなかの不思議な生き様があり、もともと毛利元就が滅ぼした名門の安芸武田氏の一族だった様で、1541年に毛利元就に安芸武田氏が滅ぼされると、武田信重(これも諸説ありますが)子だった恵瓊は家臣に守られ佐東銀山城を脱 […]
(宍戸氏家臣)三十人の墓の感想 安芸国の毛利元就と周防国の陶晴賢との『厳島合戦』の前に、毛利氏の家臣に宍戸孫六と呼ばれる武将が海老山に城を築いたと云われております。陶氏は3万の軍勢で毛利氏との合戦に備え、海老山城にあった『宍戸氏館跡』を攻め、宍戸氏の家臣三十名の尊い命が犠牲になった様です。亡くなった家臣の遺骸は海老山に土葬され、埋葬された後に村民により墓石が建てられました。今でも桜の木の下には当時 […]
鞆城の感想 『鞆城(ともじょう)』は現在の広島県福山市にある『鞆の浦』と云うめちゃくちゃ雰囲気のいい港町の面影を残した場所にあります。私は広島出身なのですが『鞆の浦』と云えば昔から古き良き港町のイメージがあり、今でも是非皆様に行って欲しいスポットのひとつです!!!(^▽^)/ 『鞆城』を私が知ったのは、戦国時代、織田信長に京を追い出され足利義昭が毛利氏を頼って辿り着いた場所がここ鞆の浦と云われてい […]
須々万沼城の感想 須々万沼城 (すすまぬまじょう)は、毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢(大内方)に勝利し、防長二か国を本格的に侵攻した際(防長経略)に、鞍掛山城(くらかけやまじょう)の戦い(鞍掛合戦)に続く激戦となった場所がこの須々万沼城 (すすまぬまじょう)です!( `ー´)ノ 須々万沼城 は三方を沼地に囲まれた城で、見た目よりもかなり攻めずらい城だった様です。大内氏の […]
北条城の感想 北条(きたじょう)城と呼びます。北条城は上杉謙信の家臣だった北条高広の城で、その昔は鎌倉幕府時代に源頼朝の重臣だった大江広元が四男季光が相模原毛利荘を貰い毛利季光となり、季光の四男経光が越後国刈羽郡佐橋荘南条を与えられ入国したことから始まります。その南条の地に館を築き毛利経光→基光(嫡男)→時元(嫡男)と続き毛利から南条の名を語っていた様ですが、時元の時代に南条(なんじょう)から北条 […]