信玄公が撃たれた場所(愛知県)
信玄公が撃たれた場所の感想 最強武田軍(武田信玄)が織田信奈が包囲網のひとつ『西上作戦』の最中、この徳川軍の野田城を攻めているときに、武田信玄が野田城の菅沼 定盈の家臣だった鳥居三左衛門に狙撃され、即死とはならなかったもの致命傷となり、後に武田信玄は没し・・・西上作戦が断念させられた伝説のある場所です。 野田城攻めの際に武田信玄は夜な夜な聞こえてくる笛の音に興味を持ったとされています。笛の音は村松 […]
信玄公が撃たれた場所の感想 最強武田軍(武田信玄)が織田信奈が包囲網のひとつ『西上作戦』の最中、この徳川軍の野田城を攻めているときに、武田信玄が野田城の菅沼 定盈の家臣だった鳥居三左衛門に狙撃され、即死とはならなかったもの致命傷となり、後に武田信玄は没し・・・西上作戦が断念させられた伝説のある場所です。 野田城攻めの際に武田信玄は夜な夜な聞こえてくる笛の音に興味を持ったとされています。笛の音は村松 […]
野田城の感想 『野田城』は愛知県新城市にある山城で、武田信玄の大掛かりな西上作戦(せいじょうさくせん)の途中の城であったが、野田城を一躍有名にしたのは『武田信玄狙撃の地』でもあるからです!?武田信玄が野田城を攻めた時、野田城から聞こえる笛の音に聴き惚れていたら、野田城の城主、菅沼 定盈(すがぬま さだみつ)の家臣だった、鳥居三左衛門に狙撃されたという言い伝えがあり、武田信玄はその鉄砲傷が原因で亡く […]
真田兄弟の墓 / 真田信綱・真田昌輝・禰津是広・常田春清・鎌原之綱の墓の感想 元々は・・・『真田兄弟の墓』を見つけ興味がわき、この『長篠・設楽原の古戦場』に来たんです!真田信綱・真田昌輝(真田兄弟)は、真田幸綱(俺が最も尊敬している)の長男が信綱・次男が昌輝、三男があの有名な昌幸(真田丸で有名な真田幸村、俺が超好きな幸村の兄貴の真田信之の父親)、四男が信尹(『のぶただ』と呼びます。この武将もまたあ […]
織田(北畠)信雄本陣跡の感想 最強武田(武田勝頼)軍を撃破した『長篠・設楽原の戦い』で、最前線の徳川家康本陣から徒歩で約30分/25分ぐらい後方、岡崎信康(家康の長男)本陣跡よりも更に後方・・・織田信忠本陣のすぐ隣に『織田(北畠)信雄本陣跡』があります(^▽^)/ 織田信雄は信長の次男とされ北畠氏に養嗣子とに出され伊勢の名門北畠氏を称していました。本能寺の変後、信長に取って代わった豊臣秀吉に徳川家 […]
織田信忠本陣跡/野辺神社の感想 岡崎信康本陣跡から徒歩で約10分ぐらい後方(しかも少しだけ小山を挟みます)の場所に、『織田信忠本陣跡』があります。織田信忠は織田信長の長男とされ、織田信長の後継者としてその後、最強軍団武田勝頼軍を滅ぼし、父の信長の希望に充分応えた武将ですね。。。それがビビッて(っと云えば言い過ぎですかねぇ~!?)初陣の岡崎信康よりもさらに後方に陣を張り、本陣は天神山の野辺神社境内に […]
岡崎信康本陣跡/松尾神社の感想 徳川家康の長男、徳川信康は当時岡崎城を守っていたため、『岡崎信康』と呼ばれていたのかもしれませんね。。。確かに、岡崎衆とか岡崎城を中心とする軍隊を岡崎衆と呼んでいたと思います。 岡崎信康は長篠・設楽原の合戦が初陣と云われており、父である徳川家康の本陣からは現在の状況で歩いて『20分』先!?直線距離で約10分の標高90m・比高15mの丘陵端に布陣させたと云われています […]
徳川家康本陣跡 / 八剱神社の感想 長篠・設楽原の合戦はとても狭い山と山の狭間で、織田・徳川連合VS最強武田軍がぶつかった場所です。。。武田勝頼が小高い丘の上に本陣を引き正面に小さな田園と連吾川(今はめちゃくちゃ小さい川)を挟んで織田軍特に鉄砲隊を総動員し、二重三重の策を築いて最強武田軍を待ち構えている向かいの小高い丘(小山?)の反対側に、『徳川家康本陣跡』があります!反対側?????????って […]
川窪詮秋 / 土屋直規 / 望月重氏 の墓の感想 長篠・設楽原の古戦場から向かいの小高い丘の途中、常林寺の裏手に一般の墓地があり、その一般の方の墓地の手前に左手にそれた小脇の道を進んでいくと、川窪詮秋・土屋直規・望月重氏の墓があります。 『川窪詮秋』はよくわかりません!(´;ω;`)ウゥゥ川窪氏は河窪氏とも云うらしく、甲斐河窪村を領し『河窪の城山』として知られる丘に城郭を構えていた一族が川窪(河窪 […]
土屋昌続(昌次)の墓の感想 長篠・設楽原の古戦場から小高い丘を越えた反対側に『土屋昌続(昌次)の墓』があります。土屋昌続(昌次)は最も若い武田二十四将のひとりとされ、馬場隊・真田隊と共に右翼側の馬防柵を突き崩し、第一・第二馬防柵を突破して第三の馬防柵(最終防衛ラインかな???)取り付き大音声を発し討ち死にしたと云われています。土屋昌続(昌次)討死の地についてはこちら 土屋昌続(昌次)は元々、金丸筑 […]
横田綱松(康景)の墓の感想 内藤昌豊の墓の裏側に、『横田綱松之墓』があります。横田氏と云えば、武田二十四将のひとり『横田高松(よこた たかとし)←どっちが苗字なのかわかり辛い!?』の長男だと思われますが、横田高松が村上義清との戦いの際に武田信玄の最大の敗北『砥石崩れ』の際に殿(しんがり)となり討ち死にしていしまいます。横田高松が討死したため同じ足軽大将であった同じく猛将の原虎胤の息子が横田氏を継ぐ […]