伊治城(宮城県)
伊治城の感想 伊治城は『いじじょう』『これはりじょう』『これはるじょう』などの呼び方が複数あります(〃艸〃)ムフッ 日本語って本当にむずかしいなぁぁぁ~苦笑 長らく『いじじょう』と音読みされていたみたいですが、多賀城跡から発見された漆紙文書などにより、当時は『これじ』『これはり』または 『これはる』と呼ばれていた可能性が非常に高い様です。 伊治城は奈良時代(8世紀後半)に大和律令政府が東北地方(陸 […]
伊治城の感想 伊治城は『いじじょう』『これはりじょう』『これはるじょう』などの呼び方が複数あります(〃艸〃)ムフッ 日本語って本当にむずかしいなぁぁぁ~苦笑 長らく『いじじょう』と音読みされていたみたいですが、多賀城跡から発見された漆紙文書などにより、当時は『これじ』『これはり』または 『これはる』と呼ばれていた可能性が非常に高い様です。 伊治城は奈良時代(8世紀後半)に大和律令政府が東北地方(陸 […]
佐竹家霊屋の感想 秋田藩主佐竹氏歴代の墓所で、菩提寺天徳寺の本堂の西側にあります(`・ω・´)ゞ天徳寺は秋田藩主佐竹氏の菩提寺で佐竹氏の国替えの際、常陸国(茨城県)から久保田城下南郊の楢山村に移されたあと、火災があり、1672年、3代藩主・佐竹義処の時代に今の場所に建てられました。秋田藩初代・佐竹義宣から最後の12代・佐竹義堯(よしたか)までのお墓があるようです。 説明板には『入母屋造、妻入で、正 […]
花巻城/鳥谷ヶ崎城の感想 花巻城は元々「鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)」と呼ばれていて、稗貫氏(ひえぬきし)の居城でした。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で稗貫氏が小田原征伐に参加しなかったことから所領を没収されて滅亡。その後、南部氏の城になり、家臣の北秀愛(きたひでちか)が城代となったことで、花巻城と呼ばれるようになります。花巻城としては1591年に築城となっており、1869年に廃城になったとのこ […]
払田柵跡の感想 払田柵跡(ほったのさくあと)は、平安時代の初めころ律令国家がこの地方の統一を進めるために造った政治的・軍事的拠点として、また儀式の場としての役割を持っていたと云われています。まぁ~秋田城と同じような役割だったんだと思います(`・ω・´)ゞ 外柵(がいさく)と呼ばれる角材(高さ3.6m/縦・横30cm)を並べた材木塀は総延長約3.6km、遺跡の総面積は約87.8haにもなるめちゃくち […]
横手城/朝倉城/阿櫻城/韮城/龍ヶ崎城/衝城の感想 有名な横手城ですヾ(≧▽≦)ノ そぉ~あの横手焼そばの横手城です♪『横手城』はその昔『朝倉城』と呼ばれていましたが、その他にも『阿櫻城』『韮城』『龍ヶ崎城』『衝城』などなど・・・っと呼ばれていたようですね((+_+))1554年に小野寺景道が小野寺家配下だった、横手氏・大和田氏・金沢氏たちの反発を鎮圧して小野寺氏の居城を横手城に移したと云われてい […]
箕冠城/箕冠山城の感想 日本(漢字)って難しいですなぇ~(=゚ω゚)ノ箕冠城(みかぶりじょう)と読みます!!! 箕冠城は越後国にあり上杉謙信の居城の春日山城や高田城の直ぐ近く、信濃国から越後国に攻められるときの越後国の入口を向かいの山城である鳥坂城と共に抑える非常に重要な位置づけにある山城です。 箕冠城は越後国守護の上杉家の重臣大熊氏が守る重要な城で、上杉謙信の時代には大熊朝秀(おおくまともひで) […]
善知鳥館の感想 善知鳥館(うとうだてあと)と読みます。難しい😓 善知鳥館は安倍貞任(あべのさだとう)の家臣。善知鳥文治安方(うとうぶんじやすかた)の居館跡と伝えられているそうです。つまり安倍氏の館ということになるかと思います。 町のHPを見ると、「昭和38年6月、紫波町教育委員会が主体となり、岩手大学板橋源教授を主任調査員として発掘調査を実施した結果、この遺跡は、安倍氏の柵か、もし […]
樋爪館の感想 樋爪館(はしづめだて)は平安時代末ごろに藤原清衡(ふじわらのきよひら)の四男である藤原清綱(ふじわらのきよつな)がこの地をもらったことで、樋爪氏を名乗るようになり、築いた館とされています。ここが重要拠点だった理由はこの地で産出する砂金等を流通させる北方交易の拠点にもなっていたとのことで、金以外にも馬、漆、米などを主に取引していたようです。 樋爪館は1189年の源頼朝による奥州藤原氏討 […]
高水寺城/斯波御所/郡山城の感想 名門奥州斯波氏の居城、高水寺城(こうすいじじょう)です。斯波御所とも言われます。高水寺城は1335年に奥州管領として斯波家長がこの地に来た時に築城されたと言われています。そこから約400年間もの間、斯波氏の居城として使用されます。そんな名門だった斯波氏も戦国時代に入り、南部氏が力をつけてくると、南部氏から養子として中野康実を送りこまれます。これ以降、斯波家の乗っ取 […]
藤原泰衡の首洗い井戸の感想 鎌倉時代、奥州藤原氏最後の当主(第4代)で、源義経を大将に頼朝と戦うことを目指しますが、結局は鎌倉幕府の圧力と朝廷を通じた討伐令に耐えられず義経を自害に追いやった武将になります。1189年、源頼朝から義経を匿ったことでお咎めを受けて幕府と戦うことになります。結局泰衡は負けて敗走するのですが、平泉から河田次郎に助けを求めて贄の柵(にえのさく)(現在の大館市)に逃げますが、 […]