安芸国虎 / 黒岩越前守 / 有沢岩見守 の墓(高知県)

安芸国虎 / 黒岩越前守 / 有沢岩見守 の墓(高知県)

安芸国虎 / 黒岩越前守 / 有沢岩見守 の墓の感想

安芸城から西南に約3kmの場所に浄貞寺というお寺があります。ここを創設したのは安芸国虎の祖父、安芸備前守元親が創設されたと云われ安芸氏の菩提寺とされているようです。安芸国虎は土佐七雄のひとりとされ西の一条氏東の安芸氏として大きな勢力を持っており、安芸国虎の妻は一条房基(ふさもと)の娘とされています。

安芸国虎 / 黒岩越前守 / 有沢岩見守 の墓画像ギャラリー

長宗我部国親が長宗我部氏を復活させ、息子の長宗我部元親が土佐の版図を広げていく中で、長宗我部元親の家臣であ吉田重俊の領地であった香美郡夜須を巡り安芸国虎と争いが発展したようですね。これをきっかけに、長宗我部元親が本山氏討伐の兵を挙げた際に安芸国虎が5,000の大軍を率いて、長宗我部元親の居城であった岡豊城下へ攻め込んできます!!! 元親不在の中、吉田重俊が大奮起し安芸軍をはねのけます。(よくやった(^▽^)/♪)
態勢を立て直し再び攻め込もうとする安芸国虎!急ぎ戻り逆に安芸領に攻め込もうとする長宗我部元親!一触即発な状況になりますが、東の雄 一条兼定の仲裁により一旦は和陸することになります。

1569年4月ごろ、長宗我部元親は安芸国虎に宛て『和睦したいので岡豊城へ来ていただきたい』という内容の書状を送ったが、国虎は『長宗我部氏と安芸氏は格が違う!無礼千万な書状だ!』として拒否したため、これを大義名分として長宗我部元親は安芸領へ攻め込むきっかけとしたようです(元親の謀略だったんでしょうね~国虎を怒らせるための)
同年7月ごろ、長宗我部元親は7,000の兵を率いて岡豊城を出て安芸領である和食(わじき)に陣を張り、一方、5,000の兵を率いた安芸国虎は八流(やながれ)に陣をはり激しく両軍がぶつかったと云われています・・・(八流の戦い) この八流の戦いで大敗した安芸国虎は安芸城に籠城するも食料も武器も枯渇した状態の中、家臣の横山民部と云われる男に井戸に毒を投げ込まれ万事休すこととなり、城兵の命を助けることを降伏の条件に自害したと云われています。

安芸国虎の墓画像

正面が『安芸国虎のお墓』です。
手前の向かって左側は『有沢岩見守の墓』 向かって右側が『黒岩越前守の墓』です。

安芸国虎の墓です。。。

有沢岩見守の墓

有沢岩見守の墓です。。。
有沢重親は安芸国虎の重臣で国虎の最後を介錯し、自らも後を追って殉死したと云われています。

黒岩越前守の墓

黒岩越前守の墓です。。。
安芸国虎の重臣であり忠臣の武将だったと云われています。長宗我部元親との争いに関してもその無謀さを諫めて和議を主張するも聞き入れられなかったとされています。また、戦で敗れた安芸国虎の妻を中村(現在の四万十市)にある一条家まで無事に逃がし、自らは再び安芸城に戻ったとされています。その忠義に感じ入った長宗我部元親は長宗我部家への仕官を求めたが、黒岩越前守は仕官を拒否し国虎の死から初七日にその墓前において殉死したと云われています。。。
因みに・・・息子の黒岩種直は長宗我部元親に仕え、1582年阿波国に侵攻した長宗我部軍は三好氏の本城であった勝瑞城(しょうずいじょう)を本陣に構える十河存保の軍と戦い討ち死にしたと云われています。(中富川の戦い)

安芸国虎が切腹の際にこの池の水で太刀を清めたらしいです。。。

安芸国虎 / 黒岩越前守 / 有沢岩見守 の墓情報(浄貞寺

創 建文明年間(1469~1487年)ごろ
本 尊釈迦如来
住 所高知県安芸市西浜556
種 別寺院
特 徴県指定史跡
入場料無料
営業時間
駐車場無料

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安芸国虎 / 黒岩越前守 / 有沢岩見守 の墓レビュー

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