尼子清定 尼子経久の墓の感想
尼子清定と尼子経久の墓が月山富田城の麓の飯梨川を渡った正面にある『洞光寺』にあります。
洞光寺は備後国高野山金尾に尼子清定(尼子経久の父になります)が1468年に開創させ、翌1469年~1488年に備後国高野山金尾から月山富田城麓に移築したと云われていたり、また、尼子経久が父親の尼子清定が亡くなったのを冥福を祈り高野山金尾から月山富田城麓に移築したとも云われております。どちらにしても尼子氏には縁が深い寺ですね(⌒∇⌒)
尼子清定は、尼子経久の父親で出雲国の守護大名である京極氏を支える守護代の役職を担っていました。ちょうど応仁の乱の頃で、当初は出雲国内で反京極氏への動きが高まり国人衆の松田氏や三沢氏などが反乱を起こそうとすると尼子清定が鎮圧するなどしていたが、度重なる戦乱と幕府の衰退・権力の失墜を目の当たりにしながら出雲国での独立を目指し動き始めます。山陰地方でも大きな貿易湊だった『美保関』を奪うと、幕府への献金を止めさせ尼子氏の軍資金とし出雲国内の勢力を拡大していきます。
尼子経久は、西国でもトップクラスの下剋上をした武将としても知られる謀聖 尼子経久は尼子清定の嫡子(長男)として生まれます。幼き頃は出雲国の主君、守護大名だった京極政経の京都屋敷に人質として送られたりしています。出雲国で父親の清定の傍若無人(京極氏にとっては)な振る舞いに、人質として毎日命を脅かされた日々だったと思いますが、幕府の体制や応仁の乱など京都で多くを学べた機会になったのではないかと思います。
京極政経から偏諱(へんき)を賜り、又四郎 → 経久と名を変えて元服し、出雲国に父親を説得するように求められ帰国させられます。(幕府・京極氏も幼いころに京都で育てた経久の方が扱いやすいと考えたんでしょう)ところが出雲国に帰国した尼子経久は 父 清定から家督を継ぐと清定よりも更に富国強兵に務め出雲国での勢力拡大に動き出します。怒った京極氏は塩冶氏など出雲国の国人衆たちを使い尼子氏を攻めさせて尼子親子を月山富田城より追放します。何とか殺されずに逃げ切った尼子経久と弟の幸久は、母方の真木氏(馬木城)を頼り奥出雲に身を隠します。その後、機を見て尼子経久は月山富田城を奇襲で奪い返し、自分の代わりに守護代になっていた塩冶氏を討ち取り見事復帰(下剋上)を果たし、その後は知略・謀略を駆使しながら中国地方11ヵ国を支配するまでに尼子家を大きくする戦国武将です!
その親子の墓がここ洞光寺にありました!
尼子清定 尼子経久の墓画像ギャラリー
洞光寺は尼子氏と本当に縁が深く『尼子氏歴代追悼碑』がありました



洞光寺を正面に左手に進むと墓地があり、墓地に入り右手に進むと『尼子清定 尼子経久の墓』があります






『尼子清定 尼子経久の墓』です(`・ω・´)ゞ


尼子経久公の墓

尼子清定公の墓


洞光寺の正面には月山富田城がきれいに見る事が出来ます(^▽^)/ 素晴らしい~♪



尼子清定 尼子経久の墓情報
年 代 | 尼子清定:1488年没 尼子経久:1541年没 |
住 所 | 島根県安来市広瀬町広瀬 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 有り(無料)洞光寺駐車場 |
尼子清定 尼子経久の墓へのアクセス
尼子清定 尼子経久の墓レビュー
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