尼子国久・誠久・敬久の墓の感想
新宮党館跡の館内に『尼子国久・誠久・敬久の墓』があります。
尼子の精鋭、新宮党につきましては新宮党館跡に記載しました。
尼子経久の次男 尼子国久と国久の息子 誠久・敬久 は本当に尼子軍の中心的戦力だった様で数々の武勇が残っています。 尼子経久の孫、尼子晴久に粛清され滅ぼされてしまいますが、一方で、その粛清は毛利元就の謀略だと云う話も残されています。
当時、西の最大勢力大内家で下剋上が起こり陶晴賢が主君の大内義隆を討って、大友宗麟の弟を大内家の当主と据えて自らが大内家を乗っ取ります。支配されていた安芸国の国人衆は大きく動揺し毛利家も勿論同様に大きく揺れます。大内家に人質に出され大内家で育ち大内義隆から『隆』の字を偏諱(へんき)してもらっていた毛利隆元(毛利元就の長男)は打倒!陶晴賢!!!大内義隆の敵討ち!!!を強く主張しますが、背後に難敵の巨大勢力尼子氏がいるため毛利元就もなかなか決断と実行を行うことが出来ません! そこで毛利元就は尼子国久と手紙のやり取り(たぶん毛利元就から尼子国久へ一方的な)を繰り返し尼子晴久が国久に疑惑を持ち始めると、『謀反』を促す手紙を毛利家で捉えてあった罪人に手紙を持たせ出雲国へ向かわせ、途中の道中で尼子家の間者に発見させ切り捨てさせ懐にあった手紙を尼子晴久に渡る様に仕向けたとされています・・・むむむ!いかにも謀略家の毛利元就らしいエピソードですが真実がどうかはわかりません(^◇^) けど、日々の尼子国久が率いる新宮党の悪態に尼子家の危機を感じていた尼子晴久は尼子軍最強の新宮党を滅ぼしてしまいます。 その結果、尼子家は数年大きな軍事行動をとることが出来なくなってしまい、新宮党を滅ぼしたことを確認すると、毛利元就は大内義隆の敵討ちを掲げ、あと日本三大奇襲のひとつ『厳島の戦い』にて陶晴賢を討ち滅ぼし大内家を滅ぼし毛利元就が下剋上を果たし西国の大大名にのし上がります。
その最強勢力の尼子国久と息子の誠久・敬久の親子は並んで新宮党館跡にお墓がありました。
尼子国久・誠久・敬久の墓画像ギャラリー





尼子国久・誠久・敬久の墓情報
年 代 | 1554年没 |
住 所 | 島根県安来市広瀬町富田19 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し(月山富田城駐車場など利用) |
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