伝 尼子義勝(尼子久幸)の墓の感想
尼子義勝は尼子経久の弟で義勝って云うよりは尼子久幸として知られているような気がします。
尼子久幸は兄の尼子経久をめちゃくちゃ支え、晩年、尼子経久が自らの老いを悟ると久幸に自分が亡くなったら尼子家を継ぐように頼むと、久幸はそれを断り政久(経久の長男、阿用城攻め中に討死)の子、晴久に家督を継ぎ自分たちが全力で支える事を約束したと云われています。
晴久が成人し勢力を拡大、尼子家にとって最大の勢力拡大を名に遂げていた頃、晴久は毛利元就討伐を決め、毛利元就の居城 吉田郡山城を攻めることを宣言しますが、尼子久幸は断固反対します!!!『毛利元就は戦国きっての名将であり、攻め込んでは必ず尼子家が負けてしまうでしょう!もし攻め込むならもう少し時間をかけ、出雲国・石見国・備後国を抑えてから攻め込むべきだ!』だと主張!( `ー´)ノ
しかし、当主の尼子晴久と若い家臣たちは尼子久幸をバカにして嘲笑い尼子久幸の事を『臆病野州(野州とは当時尼子久幸が下野守(しもつけのかみ)を名乗っていたため』を罵ったとされています。
名将 毛利元就は尼子久幸が『臆病野州』と罵られたことを聞き『尼子久幸を臆病野州と云うのなら、この世の中には『勇気』と云う言葉は存在しない』と云ったらしく、名将は名将を知るっと云う事なんでしょうね!尼子久幸は兄の尼子経久に退けも劣らない名将だと自分も思います。
結局・・・尼子晴久の吉田郡山城攻めは毛利元就の知略・籠城戦に惨敗を期します。
応援の大内軍(陶晴賢)が到着すると毛利元就と陶晴賢に挟み撃ちにされ、尼子晴久の本陣も総崩れをしてしまいます。総大将の尼子晴久を救うために『日頃から武勇を口にしておるくせに大言壮語とは畳の上の水練みたいなものじゃ!この臆病野州の最後を見せてやる!』っと尼子晴久と日頃バカにしていた若い家臣たちにいい放ち、手勢5,000騎を引き連れてまっしぐらに援軍の大内(陶)軍に突進し、山頂に駆け上っていた大内軍を山下まで叩き落していき壮絶な討死をして尼子晴久を助けました。
その後、尼子晴久は夜に紛れ逃げるように撤退します。無敵だった尼子晴久軍は徹底的に打ち破られた惨敗となり出雲国に逃げ帰りますが、その後の尼子家は徐々に衰退していくきっかけとなってしまいました。
尼子久幸の墓はこの他にも安芸国の吉田郡山城近くにもあり、今回は月山富田城の麓にある城安寺の片隅にある『伝 尼子義勝の墓』を訪れました。
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伝 尼子義勝(尼子久幸)の墓情報
年 代 | 1541年 |
住 所 | 島根県安来市広瀬町富田 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し(月山富田城の駐車場など利用) |
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