有馬晴信の謫居(たっきょ)/自害の跡の感想
少し歴史に詳しい人からすれば違和感を感じるかもしれません。
有馬晴信は九州の武将で、肥前国日野江藩初代藩主であり九州動乱の中で勢力を拡大した大名のひとりです。叔父に大村純忠がいるなどキリシタン大名として有名です。
(当初は有馬晴信はキリシタンを毛嫌いしていたのですが途中で洗礼を受けキリシタン大名になったらしいですね)
当初は肥前守護職の大友宗麟に従い勢力を拡大していたが、急激にのし上がってくる龍造寺隆信からの圧力に屈し龍造寺隆信の配下となり苦しい状況に追い込まれていきます。
しかし、南から勢力を拡大する島津義久・義弘と通じる事となり、島津側に付いた有馬晴信に対し激怒した龍造寺隆信が有馬晴信討伐に動きます。それがあの『沖田畷の戦い』に繋がり島津義久・義弘兄弟に龍造寺隆信が打ち取られてしまいます。
その後、九州征伐で豊臣秀吉が九州へ進行してくると島津氏との縁を断ち切り豊臣側に付くこととなり、有馬氏は戦国乱世を生き延びることとなります。
関ケ原の時は東軍につき、加藤清正・鍋島直茂と共に小西行長の宇土城を攻撃するなど参戦している。(有馬晴信自身は病だったため息子の直純が出陣していたみたいです)
その後、有馬晴信は鍋島直茂の所領となっている旧領の三郡を徳川家康に願い出て回復してもらおうとした際に、家康の側近だった本多正純の家臣だった岡本大八に白銀600枚を贈ったがそのままネコババされたみたいで、それに怒った晴信は本多正純に訴え出たところ岡本大八は全く弁明が出来ず非を認めたため下獄されます。今度は獄中から岡本大八が『有馬晴信が長崎奉行を暗殺しようと計画している』との訴えがあったため、本多正純が有馬晴信に詰問すると晴信は何ら弁明することが出来なかったため捕えられるてしまいます。岡本大八はその後、身柄を江戸に送られ阿倍川原火刑により処せられ、有馬晴信は甲斐国に流されることとなります。
その謫居の場所がここだったんですね。。。。
場所は武田勝頼が自害した天目山の近く、初鹿野の地で日川沿いの四方を山に囲まれた非常に寂しい場所でした。肥後国(九州)からここ甲斐国(山梨)に流されて非常につらい思いをしていたんじゃないかと思います。九州の方の気質や考え方などを考えると・・・甲州街道(国道20号線)沿いの小さな住宅地の中にありました。
最終的にはこの謫居地で切腹を申し付けられ、キリシタン大名だった有馬晴信は自決が出来なかったと思うので、たぶんですが家臣に自らの首を切り落とさせたんじゃないかと思います。。。
有馬晴信の謫居(たっきょ)/自害の跡画像ギャラリー
有馬晴信の謫居跡
有馬晴信の謫居(たっきょ)/自害の跡への道順
甲州街道を外れた住宅街にひっそりと案内が出ていました。
この路地を入っていきます。。。
ありました!『有馬晴信の謫居の跡』です!周りの風景を見ていると寂しさと悲壮感を感じるのは俺だけでしょうか・・・
碑の手前にある小さな祠が有馬晴信を祀った祠みたいです。
有馬晴信の謫居(たっきょ)/自害の跡情報
年 代 | 1612年 |
住 所 | 山梨県甲州市大和町初鹿野 |
種 別 | 史跡 |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |