名生館官衙遺跡(宮城県)
名生館官衙遺跡の感想 7世紀末って云うのだから・・・飛鳥時代?~平安時代に営まれた律令期の役所(官衙)跡の様です。大崎平野の北西部にあり標高40mで、周辺との比高10mほどの台地上に立地しています。 遺跡の範囲は南北1,100m・東西700mの広さがであります。中世奥州探題大崎氏の名生城としても有名らしいですね。って云うか、名生城として組み込まれ使われていたんだと想像します(`・ω・´)ゞ 継続的 […]
名生館官衙遺跡の感想 7世紀末って云うのだから・・・飛鳥時代?~平安時代に営まれた律令期の役所(官衙)跡の様です。大崎平野の北西部にあり標高40mで、周辺との比高10mほどの台地上に立地しています。 遺跡の範囲は南北1,100m・東西700mの広さがであります。中世奥州探題大崎氏の名生城としても有名らしいですね。って云うか、名生城として組み込まれ使われていたんだと想像します(`・ω・´)ゞ 継続的 […]
沢辺館/臥牛館の感想 沢辺(さわべ)館、若しくは、臥牛(がぎゅう)館とも云います。聞きなれない『臥牛』の意味は『伏せて横たわる牛』の姿・カタチを意味している様で、この沢辺館全体がこんもりとした小山に築かれており、その姿が『伏せて横たわる牛』に似ていたのでそのように呼ばれていたんでしょうねぇぇぇ~(`・ω・´)ゞ1199~1201年頃に、葛西氏の家臣だった二階堂常信が衣川より移り住み館を築いたのが始 […]
黒岩元館/岩崎塞の感想 基本的には黒岩城の中になるんだと思われますが、こちらは黒岩元館(くろいわもとだて)もしくは岩崎塞(いわさきのさい)と呼ばれ、和賀氏が最初に築城した古城だったのではないかと思われる場所になります。その後、室町時代、戦国時代と経過する中で城の範囲を拡張整備していき黒岩城の案内図にある城になったと思われます。 黒岩城では遺構を確認することはほとんどできませんでしたが、こちらは堀切 […]
黒岩城の感想 黒岩城(くろいわじょう)または千曳城(ちびきじょう)、岩崎塞(いわさきのさい)とも呼ばれるお城になります。北上川の流れに沿って台地に築かれたお城ですが、今は住宅や道路などになってしまっていて遺構はあまり残っていない城跡になります。 黒岩城は和賀氏の家臣黒岩氏の城跡と言われていますが、和賀氏は更木城、二子城と居城を変えて行くのですが、最初に和賀に来て居城した場所がここ黒岩城(岩崎塞)と […]
八柳館の感想 八柳(やつやなぎ)館は出羽国の国人衆である八柳氏の居城です。戦国大名として地盤を固めつつあった檜山安東氏の安東愛季(あんどうちかすえ)が同族の湊安東氏と『湊騒動』が勃発すると、八柳氏をはじめとする国人衆たちはその合戦に巻き込まれていきます。安東愛季(あんどうちかすえ)が亡くなり安東(秋田)実季(あきたさねすえ)が家督を継ぐと、1589年に『第三次湊騒動』が起きてしまいます。安東実季( […]
寺林城の感想 寺林城(てらばやしじょう)は鎌倉時代、1279年に河野通重(かわのみちしげ)によって築城されたと言われています。名前だけ見た時に甲斐の武田家臣の河野通重が最後は岩手県に来ていたのか。と思いましたが同名の別の武将でしたね。ただ、伊予国(愛媛県)の河野氏の家系であることはどちらの武将も変わらないので、同じ家系の別時代の同姓同名の武将ということになります。ややこしい笑 でも、鎌倉時代に伊予 […]
善知鳥館の感想 善知鳥館(うとうだてあと)と読みます。難しい😓 善知鳥館は安倍貞任(あべのさだとう)の家臣。善知鳥文治安方(うとうぶんじやすかた)の居館跡と伝えられているそうです。つまり安倍氏の館ということになるかと思います。 町のHPを見ると、「昭和38年6月、紫波町教育委員会が主体となり、岩手大学板橋源教授を主任調査員として発掘調査を実施した結果、この遺跡は、安倍氏の柵か、もし […]
樋爪館の感想 樋爪館(はしづめだて)は平安時代末ごろに藤原清衡(ふじわらのきよひら)の四男である藤原清綱(ふじわらのきよつな)がこの地をもらったことで、樋爪氏を名乗るようになり、築いた館とされています。ここが重要拠点だった理由はこの地で産出する砂金等を流通させる北方交易の拠点にもなっていたとのことで、金以外にも馬、漆、米などを主に取引していたようです。 樋爪館は1189年の源頼朝による奥州藤原氏討 […]
北条館遺跡の感想 北条館遺跡(ほうじょうだていせき)は鎌倉時代の館跡になります。発掘調査で平安時代のかわらけや土師器、中世の陶磁器などが出土しているみたいです。現在は埋め戻されているので、土塁と堀跡が見られる程度ですが、城館跡の雰囲気は感じ取れるくらいの遺構は残っています。 誰の館跡なのかははっきりとわかっていないそうですが、樋爪氏とも北条氏の末裔ともいわれているそうですが、町のHPでは天正20年 […]
藤原泰衡の首洗い井戸の感想 鎌倉時代、奥州藤原氏最後の当主(第4代)で、源義経を大将に頼朝と戦うことを目指しますが、結局は鎌倉幕府の圧力と朝廷を通じた討伐令に耐えられず義経を自害に追いやった武将になります。1189年、源頼朝から義経を匿ったことでお咎めを受けて幕府と戦うことになります。結局泰衡は負けて敗走するのですが、平泉から河田次郎に助けを求めて贄の柵(にえのさく)(現在の大館市)に逃げますが、 […]