北条政子の墓(神奈川県)

北条政子の墓(神奈川県)

北条政子はまたの名を平政子(たいらのまさこ)ともいい、平家の流れを組む一族だったと思わせますね。超!有名な人で日本で初の『尼将軍』と云ってもいい存在でしょうね。

源氏と平氏の争いが激化すると、平清盛に滅ぼされ伊豆に追放され流人だった源頼朝も出会うと、周囲の大反対を押し切って源頼朝の正妻となります!!! 強い意志を感じる女性ですね!源頼朝は女性にだらしないイメージなのですが、そのたびに源頼朝の浮気相手には何かしらの制裁(家をまるまる破壊したとのエピソードもあります)をするなど恐ろしい(違う意味でも)女性ですね。
幾度となくピンチになる源頼朝をよく支え、源平の合戦で源氏が大勝すると鎌倉幕府を開き、父の北条時政と弟の北条義時と鎌倉幕府の執権政治に関与していきます。
源頼朝が亡くなると落飾して尼御台(あまみだい)となり、長男の源頼家が二代目の鎌倉殿を継ぎますが、源頼朝の乳母で古くから支え続け鎌倉幕府内にも大きな権力を持っていた比企(ひき)氏が頼家側に付き、一方、北条氏側は次男の実朝側に付き激しく対立を始めます。北条方は比企方を滅ぼすと源頼家を伊豆の修善寺に幽閉してから自害に追いやり、代わりに三代目の鎌倉殿を源実朝につけさせます。
源実朝は政を北条義時ら執権にすべてを奪われていたため、政治には全く興味を示さず和歌に没頭します・・・そんな源実朝ですが、これもまた征夷大将軍になると鶴岡八幡宮での式後何者かに暗殺されてしまいます。黒幕は・・・未だにはっきりしていません。

長男、次男と我が子を殺された北条政子の心情はどぉだったんでしょうね・・・

後鳥羽上皇との対立が激化し承久の乱(じょうきゅうのらん)へと発展すると、動揺する鎌倉武士たちに対し北条政子は『故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい』との声明を発表し御家人の動揺を収めたという話があります。大江広元が出陣して京を目指すと鎌倉軍は19万騎にも膨れ上がり大軍が京に攻め込み後鳥羽上皇はあえなく降参し隠岐島(おきのしま)に島流しされてしまい終焉します。
和田合戦にも関わるなど『尼将軍』の名の通りに活躍する北条政子ですが、1225年、病の床についていた北条政子は69歳で亡くなります。まさに日本で初の男勝りに戦国の歴史で大暴れし活躍した女性なのではないでしょうか。

北条政子の墓画像ギャラリー

北条政子は戒名を『安養院殿如実妙観大禅定尼』といい、墓所は鎌倉市にある寿福寺に源実朝の墓の隣にありました!

寿福寺は源頼朝が亡くなった翌年の1200年に妻の北条政子が葉上房栄西を開山に招いて創建した寺らしく、奥州に向かう源頼義(みなもとよりよし)が必勝祈願したといわれる源氏山を背にしたところにあります!

北条政子の墓情報(寿福寺)

創 建1200年
本 尊釈迦如来
住 所神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17−7
種 別寺院
特 徴
入場料無料
営業時間
駐車場無し

北条政子の墓へのアクセス

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