神西城 / 龍王山 / 竹生城 / 高倉城の感想
神西城(じんざいじょう)は尼子十旗のひとつとされている重要な城であり、現在の出雲市よりも西側にあり神西湖の南東に位置し、尼子氏の本拠地月山富田城からは最も最西端にある山城です。
築城ははっきりしていませんが、鎌倉時代に武蔵七党のひとつ横山党の小野氏(小野高通?)が地頭職に任じられ、出雲国神門郡神西へ下向したのが始まりとされています。その小野氏が土着して神西氏を名乗り出雲国の有力な国人衆となり、この神西城を築いたんじゃないかと思われます。(小野氏は当初、『古荘氏』を名乗り、その後『神西氏』を名乗ったみたいですねぇ~)
神西城は標高101.3mの高倉山に築かれた山城で、神西氏12代の城として君臨していました。
戦国時代、尼子十旗となった神西城の城主は尼子家の重臣となる神西元通でした。
尼子家と共に転戦し活躍しますが、1563年に毛利元就が出雲国に侵攻すると降伏し、1566年に月山富田城が落城し尼子氏が滅びると、神西元通は伯耆国の末吉城(末石城との記載もありますが、その後の展開を考えると、末石城ではなく末吉城ではないかと個人的には思います)という平城に神西城から移されます。(末吉城主)
1569年に尼子旧臣らで反乱を決意したころ、山中鹿之助が尼子勝久を担ぎ尼子再興軍を結成すると、山中鹿之助の誘いに乗った神西元通は、毛利家から目付として付けられていた中原就久を殺し尼子再興軍に参加し、尼子勝久・山中鹿之助と行動を共にします。
1570年に、毛利輝元率いる毛利軍と山中鹿之助率いる尼子軍は布部山で激突!!!(布部山の戦い)尼子軍は大敗し尼子勝久・山中鹿之助と共に神西元通も京へ撤退していきます。
その後、尼子勝久に従い織田信長(豊臣秀吉)の力を借りて、播磨国上月城に入城し尼子氏の復興のため戦いますが、毛利軍6万の囲まれ奮闘むなしく上月城も落城し、1578年、尼子勝久以下の尼子一族と共に自害して果てたとされています。主君であった尼子勝久と同じく神西元通も自害して果てたと思われ、神西元通の供養塔が今でも上月城に残っているようですね!
神西城画像ギャラリー
神西城は『那賣佐(なめさ)神社』を経て登っていくと、神社の鳥居横には神西城の案内板がありました。





はぁぁぁぁ~(;´Д`)」 これを登って行くんかい!?!?!?(◎_◎;)

ひーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



土塁
登りきると先ずは曲輪があり、更に曲輪を越えて登って行けそうな気がします!



いざ!!!!!!!!!!!神西城へ!!!!!!!!!!( `ー´)ノ 土塁がいいね!











ヤダケ=矢竹 でしょう! この竹藪の竹は弓矢の矢に適した竹で、島根県(だけではないですけどね!)の山城でよくみられます。戦いに日頃から準備している証拠ですね!


さらにすすみますよぁ~(^◇^)




おおおおお!開けてきた!!!!!!!!!!!!!(`・ω・´)ゞ



神西城主郭
ここが本丸ですかね!???!?!?!?(●^o^●)




良き見晴らしです~(。◕ˇдˇ◕。)/ あれは!?神西湖????(〃艸〃)ムフッ



登りはしんどかったので、帰り(下り)は鬼の階段を撮影してみました♪






わかってくれましたぁ~(≧◇≦)??????????????
神西城情報
築 城 | 不明(1223年?) |
城 主 | 神西氏 |
住 所 | 島根県出雲市東神西町 |
種 別 | 山城 |
廃 城 | 1578年ごろ |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
神西城へのアクセス
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