勝山御殿 / 勝山城 / 且山城の感想
しくじりました・・・(´;ω;`)ウゥゥ
且山城(勝山城)を目指しここに来たのですが・・・且山城(勝山城)ではなく『勝山御殿跡』でした!!!(´;ω;`)ウッ…
勝山御殿跡且山城/も勝山城の一部らしいのですが、勝山御殿跡の北側にある山に且山城/勝山城があります。。。本当はそこに行きたかったので、今回はあえて分けて『勝山御殿跡』としてレポートさせて頂きます(`・ω・´)ゞ
(且山城/勝山城は1555年に厳島の戦いで陶晴賢(大内氏)に下剋上を果たした毛利元就が最後の最後に大内義長(大友宗麟の弟)と最後まで付き添った重臣内藤隆世を自害に追い込み大内氏を滅ぼす舞台となったお城です)
幕末期に、勝山の山麓に築かれた長州藩支藩の長府藩主の居館であり、1863年の5月から幕末の開国に伴う攘夷の高まりの中、下関海峡を航行する外国船を攻撃を行ったようです。すると6月にフランス艦隊の報復攻撃を受けた(下関戦争)ため、これまで関門海峡に接し海岸沿いの場所にあり長府藩邸を置いていた櫛崎城 (串崎城 / 雄山城 / 長府城 / 長府陣屋)から内陸部に移すことを決定し、当時、長府藩主だった毛利元周は櫛崎城を離れ、覚苑寺に仮住まいしながら、わずか5ヵ月(この辺は凄いですよねぇ~!?)で急造した藩邸が勝山御殿です。1864年に完成し2月に毛利元周は入城します。
『勝山御殿』はその後、廃藩置県まで存続したようですね。。。
勝山御殿は、勝山と四王司山の南麓に位置する谷間に築かれており、山々を背にする北側に本丸を構え、南側に向かって二の丸と三の丸が造られた連郭式の構造となっているみたいですね。藩主たちは勝山御殿の北側に住んでいたらしく裏山にはかつて山城と君臨していた且山城/勝山城があります。石垣なども見られますが、乱積み・山縣積みなどの伝統的な工法で石積みされた石垣の上に土塁を設けるカタチになっており、櫛崎城の時の様な『敵からの砲弾を防ぐ』ための城作りにはなっておらず、城と云うよりはその名の通り『御殿』の方がふさわしい感じがしますね。
自分の勉強不足をめちゃめちゃ悔やみますが(めったに下関まで来れないので(´;ω;`)ウゥゥ)、次回来た時こそ!!!裏山の『且山城/勝山城』を攻めたいと思います~!
勝山御殿画像ギャラリー
石垣はやっぱり立派ですねぇ~♪ これ三ノ丸から上がっています。
三の丸から二の丸!からの~本丸!
ここが本丸跡ですね!
低い石垣で囲まれていますねぇ~♪ それにしても本丸はデカい(広い)!!!
ここに大掛かりな御殿が建っていたんでしょうねぇ~♪
本丸の脇から『本丸奥』に行けます♪
勝山御殿!コンプリートです!!!!!!!(^▽^)/
このレポートを書きながら気が付いたのですが、勝山御殿の奥に『且山城/勝山城』への入口がありましたねぇ~ 『城』ではなく『山』だったので、注意力散漫な私は見落としていました・・・(´;ω;`)ウゥゥ
さらによく見たら、向かって左側に『青山』って書かれています。
多分これは、『青山城』ではないかと思われます!『青山城』は元々青山氏が築いた城と云われていますがよくわかっていません。この青山城には大内家の家臣だった高森内膳之助という武将が入城していたと云われ、北側にある且山城/勝山城の城主だった内藤興盛と争いが始まり、高森氏は津田氏や津原氏の加勢を得て且山城/勝山城の内藤興盛を攻めますが、大内家の加勢を得た内藤氏によって逆に攻め落とされた山城だと思われます! ちくしょう~(´;ω;`)ウッ…行きたかった~涙
勝山御殿情報
築 城 | 1863年 |
城 主 | 毛利氏 |
住 所 | 山口県下関市田倉 |
種 別 | 山城 |
廃 城 | 1871年 |
特 徴 | 国指定史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 有り(無料) |
勝山御殿へのアクセス
勝山御殿レビュー
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