川之江城 / 仏殿城の感想
以前、四国で働いていた頃があり、クルマで移動中によく見かけていた城が川之江城でした!
川之江の地は、伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ重要な交通の要衝であったため、南北朝時代に南朝方だった河野氏が川之江の鷲尾山山頂に砦を築き、1337年に土肥義昌が川之江城を築いたと云われています。 1342年 に細川頼春が7千の大軍を率い川之江城を攻撃し、川之江城主の土肥義昌破れ討死してしまいます。。。。その後は、この交通の要所を巡って河野氏と細川氏が争いが繰り替えされました!1536年 ~1559年まで城主は細川通薫(ほそかわ みちただ)であったらしく、激しい奪い合いの戦いの中、細川通薫は独力での川之江の地を維持するのが不可能であると考え、毛利氏を頼り備中国に去ってしまったため、川之江城は河野氏の城として納まってしまいます。
1571年に河野氏の命を受けた妻鳥釆女正友春(めんどりうねめしょうともはる)が川之江城入り城主となりますが、妻鳥釆女正友春は長宗我部元親に内通し河野氏に反旗を翻したため、河野氏配下の河上安勝の攻撃を受けて落城させ河上安勝が城主となる。しかし、1582年に土佐国の長宗我部軍の攻撃を受けて再び川之江城は落城し河上安勝も討ち死にしてしまいました。
その後は豊臣秀吉の四国討伐の侵攻により、長宗我部元親は自国の土佐国一国に押し込められます。
川之江城は豊臣側だった毛利氏の小早川隆景に与えられ、小早川氏→福島氏→池田氏→小川氏と城主が目まぐるしく変わり、1600年の関ケ原の合戦後、伊予松山に入った加藤 嘉明(かとう よしあきら / よしあき)の城となるが、一国一城令により川之江城は廃城になったとみたいです。。。
因みに・・・川之江城は別名『仏殿城』と云われていたみたいで、本来は川之江城は仏閣であったみたいなので、そぉ呼ばれていたみたいです(^▽^)/
川之江城 / 仏殿城画像ギャラリー
川之江城の縄張りは標高62mの鷲尾山山頂を主郭とする階郭式の山城ですね!

小高い丘に築かれているのがよくわかります。現在は二の丸下の駐車場までクルマで行けました!





さてさて・・・攻め込んでみます!







二の丸に侵入!本丸の大手門です!








門の中に入ると虎口になっとりますなぁ~♪




本丸登場です!!!!!(o^―^o)ニコ♪





城地の主要部分は石垣が配されておりましたが、加藤嘉明の時に築かれたんじゃないかと思います~♪







川之江城情報
築 城 | 1337年 |
城 主 | 河野氏、土肥氏、細川氏、妻鳥(めんどり)氏、河上氏、長曽我部氏、小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏、加藤氏 |
住 所 | 愛媛県四国中央市川之江町1087-4 |
種 別 | 山城 |
廃 城 | 1615年 |
特 徴 | – |
入場料 | 大人 100円 小・中学生 50円 |
営業時間 | 9:00~16:00 定休日:月曜日(祝日の場合、翌平日)、10月14~15日、12月29~1月3日 |
駐車場 | 有り(無料) |
川之江城へのアクセス
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