櫛崎城 / 串崎城 / 雄山城 / 長府城 / 長府陣屋の感想
櫛崎城(くしざきじょう)は長門国豊浦郡(現在の下関)にあり、実際に訪れたときの案内板には『串埼城』と記載されていました。なぜ『串埼』といえば、鎌倉時代に蒙古襲来の元寇(げんこう)の際に討ちとった敵兵の首をこの海岸に埋めたことから 『首崎』 が転化したものだと云われています((+_+))
築城は詳しくわかっていませんが、戦国時代には大内氏の家臣だった内藤隆春が築城したとされており、内藤隆春の家臣、勝間田盛長を城代として入れていたとされています。
大内氏を滅ぼした毛利氏が長門・周防の2か国も支配していたと考えられ、その時の櫛崎城(串崎城)がどうだったのかはよくわかりませんが、1600年の関ヶ原合戦後、西軍の総大将だった毛利輝元は敗れてしまい、防長二カ国に大減封となり萩城を居城とした。その際に毛利秀元は六万石を分知されて櫛崎城(串崎城)を居城とし長府藩となった。 毛利秀元は毛利元就の四男穗井田元清の長子で、長らく嫡男に恵まれなかった毛利輝元の養子となった人物である。後に輝元に嫡男秀就が誕生したことから別家をたてました。櫛崎城(串崎城)は当時機能していなかったのでしょうか?毛利秀元は櫛崎城(串崎城)に入城し、細川元道の家臣秋田清長を招いてあらためて築城したと云われています。毛利秀元は櫛崎城(串崎城)ではなく『雄山城』と呼んでいたようですね。1615年の『一国一城令』によって破却されてしまいます。。。
櫛崎城(串崎城)は海に突き出した標高は北側の頂部で約21.5m、南側の本丸で約28mの台地上に築かれており、断崖と高石垣に囲まれた南北540m東西250mの広大な城だったことがわかりますね~(^▽^)/(今はちょこっとだけ残っている感じです~笑)
南・北・東側は断崖絶壁となっており、城全体を石垣でがっちり囲まれている堅固な城だと云うことがわかります。。。関門海峡を見張るうえでも重要な城だったんでしょうね~ 現在でも本丸の天守台に登ると海を一望でき、海を意識した築城の意図が強く感じられました。
櫛崎城(串崎城)画像ギャラリー
櫛崎城(串崎城)は現在、『関見台公園』となっており住宅地の中に入口があります!
林の上に石垣がチロリと見えますね!(笑)
櫛崎城(串崎城)へレッツラゴー♪
復元した石垣なのかな???きれいだな!?!?
お!!!!少しいい感じになってきましたなぁ~(o^―^o)ニコ
櫛崎城(串崎城)の案内板です♪♪♪
櫛崎城(串崎城)・・・めちゃめちゃカッコエエなぁ~(⌒∇⌒)
天守台へ向かってみます( `ー´)ノ
天守台に到着です(`・ω・´)ゞ ヨッシャー
本丸天守台の石垣や天守台からの眺望もいいですねぇぁ~(^▽^)/
本丸北西隅にあった天守は複合式天守だったと云われています。しかしこれほど立派な城ながら、築城から13年後、1615年の『一国一城令』のため串崎城は破却されてしまいますが、その後、藩政の中心は三の丸の居館に移ったようで、絵図によれば二の丸に船手組屋敷や煙硝蔵(えんしょうぐら)が置かれるなど、『一国一城令』後も城としてではなく、櫛崎城(串崎城)は土地活用されていたとみられますね。
櫛崎城(串崎城)【動画】
櫛崎城(串崎城)の前を通り過ぎていくタンカーの動画をどうぞ!!!((´∀`*))ヶラヶラ
櫛崎城(串崎城)情報
築 城 | 不明 |
城 主 | 内藤氏、毛利氏 |
住 所 | 山口県下関市長府宮崎町6−2 |
種 別 | 平山城 |
廃 城 | 1615年 |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 有り(無料) |
櫛崎城(串崎城)へのアクセス
櫛崎城(串崎城)レビュー
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