源実朝の墓の感想
源実朝の墓は寿福寺の奥の墓地にあります。
源実朝(みなもとのさねとも)は源頼朝と北条政子の次男として生まれました。(北条政子の墓も隣にあります。)
源頼朝が亡くなると、長男の源頼家が鎌倉殿第二代目となり三年後に征夷大将軍となりますが、長男の頼家派である比企氏(ひきし)と次男の実朝を担ぐ北条氏との間で対立が始まり、北条氏が比企氏を滅亡させたため源頼家は伊豆の修善寺に送られ幽閉され暗殺されてしまいます。
源頼家に代わり鎌倉殿第三代目に就任したのが源実朝です。そして12歳で征夷大将軍となります!
源実朝は一切政治にかかわろうとはしませんでした・・・北条氏の傀儡政権(言いなりに行動する政権)であることを受け入れ、自身は歌道の世界に没頭します!?!?因みに・・・源実朝は和歌について高い才能を持っており、「小倉百人一首」にも「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」って詩が選ばれているみたいですねぇ~
1218年12月源実朝は右大臣に任ぜられ、翌1219年1月27日に鶴岡八幡宮で右大臣就任を祝う式典が挙行されました。夜になって式典が終わり、社殿の石段を下りていたとき大銀杏の陰から男が現れて「親の仇はかく討つぞ」と叫んで源実朝の頭を一撃し暗殺されてしまうようです。
これまた因みに・・・その黒幕は頼家の子である説や、邪魔になったと感じた北条義時の説、自分が取って代わろうとした三浦義村の説、策略家の後鳥羽上皇の説などモロモロ沢山あるみたいですね!
源実朝の墓画像ギャラリー




寿福寺は源頼朝が亡くなった翌年の1200年に妻の北条政子が葉上房栄西を開山に招いて創建した寺らしく、奥州に向かう源頼義(みなもとよりよし)が必勝祈願したといわれる源氏山を背にしたところにあります!


















源実朝の墓情報(寿福寺)
創 建 | 1200年 |
本 尊 | 釈迦如来 |
住 所 | 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17−7 |
種 別 | 寺院 |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
源実朝の墓へのアクセス
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