長宗我部盛親公慰霊之碑の感想
秦神社に長宗我部元親の四男『長宗我部盛盛親公慰霊之碑』がありました。
秦神社は長宗我部氏が秦氏の流れからくる一族なのであったのかな?って思っていたんですが、元々長宗我部氏の菩提寺であった『雪蹊寺』が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の機運が高まっていた明治3年に廃寺となったため、長宗我部元親の弟の親房(別名は島親益といい四男の弟である親益を元親はとてもかわいがっていたが、親益は病弱で有馬温泉に治療のために船で向かっているときに強風に合い、阿波国の海部城下の港で停泊していたところを海部氏に襲われ殺されてしまう。弟を殺された元親は激怒し阿波国に侵攻、海部城を落城させています)の子孫とされる島弥九郎与助たちは土地の有志たちとともに高知藩庁に働きかけ秦神社の創建を請願し明治3年12月に許可が下りて設立した神社だそうです。(まだ新しいね!)
長宗我部盛親は元親の四男として誕生します。秀吉の九州征伐に出陣した長宗我部軍は戸次川の戦いで、元親最愛の嫡男信親を討死させ失望していた。更に長宗我部家中は信親の代わりとなる後継者を、香川親和(次男)、津野親忠(三男)を推す一派と大きく割れてしまい混乱を発生させるが、長宗我部元親の強い意志があって四男だった盛親に家督を相続させることとなります。しかし、その強引な判断に家中で反対するものが続出する状況となります。しかし元親はそれらを全て処断しててしまいます。。。(個人的な思いですがこの件で長宗我部元親は晩年を汚してしまい、今の今までいまいち英雄の評価を得られていないのではないかと思います。。。本当に悔しくて残念です)長宗我部盛親が家中で嫌われていた理由のひとつは、元々盛親は兄弟の中でも傲慢で短気な性格から人望が薄く嫌悪感を持つ者多かったと云われています。
面白い話もあります・・・長宗我部盛親は長宗我部家の当主として豊臣秀吉に認められていなかったとの話もあります(豊臣秀吉は次男の香川親和を推していたとか???) よって、その後は長宗我部家は元親と盛親の二頭統治を行っていたらしいです。。。(* ´艸`)クスクス本当の事は知りませんがぁ~汗
関ケ原の合戦では皆さんご存じの通り西軍が大敗!!!長宗我部軍は一戦も交えることなく撤退します。その後、井伊直政を通し徳川家康に謝罪を入れますが、どさくさ紛れに重臣にダマされ兄の津野親忠を殺してしまったため徳川家康の逆鱗に触れ長宗我部盛親は改易・蟄居させられます。
1614年大坂方と徳川方との間が険悪になる中、蟄居していた長宗我部盛親は6名の家臣と大阪城に入城し大坂冬の陣・夏の陣にも参戦し大坂側の主力部隊として戦うが八尾の戦いで長宗我部部隊は壊滅!!!部隊崩壊後、京都八幡付近の橋本近くの葦の中に潜んでいた長宗我部盛親を、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の家臣長坂三郎左衛門に見つかり捕えられ伏見に護送されたみたいです。その後、長宗我部盛親は京都の大路を引廻され1615年5月15六条河原で斬首された。。。享年41歳。これにより長宗我部氏は滅亡してしまいました。
長宗我部盛親公慰霊之碑画像ギャラリー
秦神社です!
秦神社に向かって進み右側に『長宗我部盛親公慰霊之碑』の案内が出てきます。
『長宗我部盛親公慰霊之碑』 (=゚ω゚)ノ
因みに・・・秦神社の向かって左手には『戸次川の戦い 戦没者名標』がありました!
そぉかぁぁぁ・・・これがあったから、『長宗我部盛親公慰霊之碑』と『長宗我部信親の墓』を間違えた(勘違いした)とレポートしてて思いました・・・とほほほほほ(´;ω;`)ウゥゥ
長宗我部盛親公慰霊之碑情報(秦神社)
創 建 | 1871年 |
主祭神 | 長宗我部少将元親霊 |
住 所 | 高知県高知市長浜857-1 |
種 別 | 神社 |
特 徴 | 元親坐像(県指定文化財) 肖像画(国指定の重要文化財) |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 有り(無料) |
長宗我部盛親公慰霊之碑へのアクセス
長宗我部盛親公慰霊之碑レビュー
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