長宗我部元親公の墓の感想
私の大好きな武将のひとりです!!!(≧◇≦)
長宗我部元親!!!四国を統一した唯一の戦国武将!英雄だと思っています!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
その『長宗我部元親の墓』に行ってきました~(^▽^)/
長宗我部元親は1539年に長宗我部国親の嫡子として岡豊(おこう)城で誕生したと云われています。幼名は『弥三郎』のちに土佐守護だった細川晴元の偏諱を受け『元』の文字をもらい『元親』と名前を変えます。
少年時代の元親はよくわかっていません。色白でおとなしい性格で城の奥に引っ込んでいたとも云われ、周りから『姫若子(ひめわこ)』と呼ばれバカにされていたようですね。父親の国親も元親には戦場の活躍はあまり期待していなかったのかもしれません。1560年5月に宿敵本山氏を叩くために長浜城へ向かうこととなります。(長浜の戦い) 元親は弟の親貞と共に初陣を飾ることとなります。当時の元親の年齢は23歳。一般的には15歳で初陣が当たり前の時代にかなり遅い初陣だったことと、弟と一緒に初陣をさせるところから、やはり国親は元親に戦場での活躍は期待できていなかったのではないかと思います。因みに・・・戦場に立った元親は近くにいた重臣に『槍を使ったことがないどうすればいいのか?』『大将は前に進むものか?後ろにいるものか?』など、すっとぼけた質問をして重臣たちから呆れられることがあったようですが、それはそれ!元親がふざけていただけど((´∀`*))ヶラヶラ
実際に戦が始まると元親率いる50騎は怒涛の様に敵陣に切込み70以上の首を上げ、元親自身も2つの大将首をあげたと云われていますヽ(^o^)丿やった~♪ 元親の活躍で長宗我部軍の大勝利!!!
しかも、戦が終わり撤退する時は、周りの重臣が反対し国親の制止を振り切って支城である潮江城にも突入し奪い取ってしまいました!!!元親は潮江城の兵が全員逃げ去ったことを見抜いた様で、国親はじめ長宗我部軍の重臣をうならしたエピソードはめちゃめちゃ有名で、この別人とも呼ばれる活躍をもって、「姫若子」とは誰も呼ばなくなり『鬼若子』や『土佐の出来人』と呼ばれるようになったみたいです。
国親が急死すると元親が家督を継ぎ、長宗我部軍の最大の武器となる『一領具足(いちりょうぐそく)』の制度を導入し半農半兵を強化し、朝倉城、本山城を攻め落とし宿敵本山茂辰を山奥の瓜生野城まで追い込み、弟の親貞を名家の吉良家に養子として迎えさせ吉良親貞と名乗らせ主に西側の勢力拡大に、もう既に香宗我部家に養子に入っていた三番目の弟の香宗我部親泰を東側の勢力拡大に動かし東の雄であった安芸国虎と戦い滅ぼし、吉良親貞を使い一条兼房を国外に追い出し土佐一国を支配してしまう!!!四番目の弟の島親益(長宗我部親房)が病気の治療で有馬温泉に向かう途中、阿波国の海部氏に襲われ殺されてしまうことをきっかけに海沿いの阿波国への侵攻を強化!合わせて吉良親貞を使って伊予国への調略を始め、自らは難所の大歩危小歩危を抜け『四国のへそ』と呼ばれる白地へ侵攻し白地城を抑え讃岐国と阿波国を同時に攻め始めます。途中、毛利氏の小早川景隆や織田信長ともあれやこれやもめながらも、本能寺の変が起こりその間に四国統一を成し遂げますが、信長の後を継いだ豊臣秀吉の四国征伐に踏ん張りに踏ん張りますが装備の差!兵の差!は歴然でとうとう秀吉の前に元親は屈します。。。そして土佐一国に押し込められるのです。。。(´;ω;`)ウッ…悔しいだろうなぁ・・・
豊臣秀吉に臣従した長宗我部元親はこれまでと打って変わって、秀吉に全身全霊を掛けて尽力します。そんな中、1586年、長宗我部元親は豊臣秀吉の命によって大友氏の救援として九州討伐のため息嫡男の長宗我部信親と共に九州に渡ります。戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)で豊臣氏の軍監であった仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は川を渡り攻撃するべきと無謀にも主張し、長宗我部元親は大反対しますが無理やり開戦してしまいますが、息巻いてたにも関わらず豊臣方の先陣の仙石秀久の部隊が不意を突かれて敗走したため(因みに仙谷秀久はそのまま淡路島まで逃げ帰ったそうです失笑)豊臣軍は島津軍にズダボロにされ大敗!!!大混乱の中、長宗我部元親は何とか混乱から脱出!四国から従軍してきた十河 存保(そごう まさやす)は討死、長宗我部信親も混乱の中討死してしまします。
長宗我部元親は気がふれるほど悲しみに暮れていたでしょうね!!!!( ノД`)シクシク…
最愛の息子であった長宗我部信親の死が長宗我部元親の運命を大きく変えてしまったと云ってもいいと思います。大切な信親を失った長宗我部元親はその後、人が変わったようになったと云われています。長宗我部信親の死後、長宗我部の跡取り問題が発生します! 一部の家臣の話だけを聞き入れ、長宗我部元親の次男『香川親和(かがわちかかず)』や三男『津野親忠(つのちかただ)』が存命であるにもかかわらず、溺愛していた四男『長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)」の家督相続を強行してしまいます。(因みに秀吉は香川親和を推していたため、最後まで長宗我部盛親の家督継承を認めていなかったとされています) 反対する者は例え一族であっても粛清するなど、非道な行ないが目立つようになりました・・・本当に残念です・・・( ノД`)シクシク…チクショー!!!
その後、長宗我部元親は長宗我部氏の行く末を見届けることなく、1599年(関ケ原の合戦の1年前)に伏見邸にて死去してしまいました。享年61歳。
因みに・・・次男の香川親和は悲嘆の中で病死。三男の津野親忠は長宗我部盛親(の家臣)に殺害されてしまいます。。。長宗我部家は関ケ原の前にはボロボロだったと思いますね。。。
最後に長宗我部元親の人柄については『律儀で情け深く、家臣の意見もよく聞き入れる度量の大きな君主であった』と云われていただけに晩年は残念でたまりません。。。けど。。。私は長宗我部元親が大好きです!!!!!!
長宗我部元親公の墓画像ギャラリー
長宗我部元親の墓は県道34号線から少し中に入った所にありました。県道沿いに道標が出ておりたぶん行けばわかり易く気が付くと思います♪
場所は長浜城(雪蹊寺・秦神社)・浦戸城・長宗我部元親初陣の像の近くにあり、雪蹊寺や秦神社ではなくこの少し離れた場所に『長宗我部元親公の墓』があるなんて、何かしら理由があるんでしょうね~
少し狭い住宅地の中の道路を進んでいくと更に案内が出てきます。
奥に道が続いていますね・・・
お???何だろう????
なるほど・・・浦戸一揆で戦死した兵士の塚がここに移されてきたんですねぇ~
浦戸一揆の塚を過ぎてこの長い階段を上がり中腹に行ってみます。。。
ありました!!!!!!!!!!(‘◇’)ゞ
長宗我部元親公の墓です!
調べてみると、伏見の邸で病死した長宗我部元親は遺言を残しており、天龍寺で火葬にし遺骨は土佐国へ送られここ天甫寺山に葬るように云っていたようですね。
長宗我部元親は私にとって激しく切ない大好きな武将です!\(◎o◎)/!
長宗我部元親公の墓情報
年 代 | 1599年 |
住 所 | 高知県高知市長浜6619−3 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
長宗我部元親公の墓へのアクセス
長宗我部元親公の墓レビュー
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