伝 毛利元秋の墓の感想
1552年、安芸国戦国大名の毛利元就の五男として生まれます。
毛利元就の三兄弟(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)は有名ですが、四男の穂井田 元清(ほいだ もときよ)、五男の毛利元秋となり元秋は備後国(広島県北部)の有力国人の武将 三吉氏の出身の継室であるだった様です。
1566年に月山富田城で尼子義久が『降伏し落ちると、毛利元就の重臣の福原貞俊や口羽通良が在番しますが、どんどん拡大していく毛利氏にとっていつまでも重臣を在番させるわけにはいかなかったので、当時、豊前国松山城の城将を務めていた天野隆重(あまのたかしげ)を起用しようとするが、月山富田城の重要性を理解し、一度は断ったが毛利元就が必要に依頼するため月山富田城の城主として赴いています。(その時には何かしらの条件を元就に出したとか!?!?)
1568年に毛利一族の毛利元秋が出雲国に3,500貫を与えられた月山富田城の城主となったようです。けど、たぶんですが毛利元秋に対し天野隆重がしかりと補佐(っていうかメインはこの人!)し二人で厳しい出雲国を切り盛りしていたと思われます。(私は思ってます)
山中鹿之助・尼子勝久が復興を目指し出雲奪還と尼子家再興を狙い挙兵しますが、月山富田城の毛利元秋・天野隆重は兵数の少なさを勘案し小早川隆景に救援を要請した上で月山富田城に籠城し抵抗し、山口の奪還しようとする大内輝弘を鎮圧にして毛利輝元が出雲国に援軍として侵攻し毛利軍は逆襲に転じて尼子再興軍を打ち破ったみたいですね!!!
これによって、正式に毛利元秋は月山富田城の城将を命じられた。なお、月山富田城将となったことで毛利元秋または在名から富田元秋と名乗ったとされています。
毛利元秋の墓画像ギャラリー












毛利元秋の墓情報
年 代 | 1585年没 |
住 所 | 島根県安来市広瀬町町帳 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し(安来市歴史資料館に停められます) |