中村城の感想
中村城は、公家一条氏の流れを組む前関白の一条教房(いちじょうのりふさ)が、土佐の国人衆だった大平氏の支援により土佐国幡多郡中村に下向し土着したのが発端し、初代の一条房家、房冬、房基、兼定、内政の五代に渡り土佐一条氏の居城となった城です。中村城は元々土佐国中村にいた国人の為松氏が築いた城で、一条氏がこの地に流れてくると為松城は一条氏の城となり、為松氏は一条氏の重臣として仕えることとなります。
京都の公家出身の一条氏は土佐国でも異色の武将だったと思われ、京都(幕府)とのつながりもしっかりあったと思われます。土佐国にあってもその影響は非常に大きく西の雄として存在感を発揮させています。特に土佐一条氏の三代目だった一条房基は智勇に優れた人物だった様で1541年に阿波権守となり、本山氏を中心とする土佐の国人衆に滅ぼされた長宗我部氏の国親を保護し、1544年には復興させた長宗我部国親の娘と本山茂宗の嫡男本山茂辰との縁組と和平の仲介をする一方、謀反を起こした津和野氏を降伏させたり、大平氏の蓮池城を奪ったりなどを行い高岡郡一帯の支配を行い、伊予国の南部へ侵攻したりするなど土佐一条氏の勢力を拡大したようですね。しかし、一条房基は急死してしまいます。享年28歳の早すぎる死です。自殺とも暗殺とも云われていますが、この辺から土佐一条氏はガタガタになっていきます。。。
一条房基の跡を継いだ一条兼定(7歳で家督を継ぐこととなる)はまだ幼かったため、京都から叔父の一条房通が土佐国に下向し支えますが、房通が亡くなった後に兼定は元服し伊予国の宇都宮豊綱の娘を娶りますが、その後、豊後国の大友義鎮(宗麟)の娘を娶るために一方的に宇都宮氏を娘と離別してしまいます。(宇都宮豊綱はめちゃくちゃ怒ったでしょうねぇ~(´;ω;`)ウッ…)
その後、一条兼定は土佐中央で勢力を拡大する長宗我部元親を警戒し安芸国虎を支援し戦を仕掛けますが、安芸国虎が逆に討ち取られて大敗することになります。ジワリジワリと長宗我部元親に一条氏の領土を侵食されると、何を考えたのか一条氏を支えていた忠臣の土居宗珊を手打ちにし殺害!(兼定が放蕩生活を繰り返していたので散々諫言していた事が兼定の逆鱗に触れたとか???)また、村の娘に骨抜きにされて彼女のために別邸の御所まで作り通い始めるなど、名門土佐一条氏の家臣たちから信頼をがた落ちさせる行為を繰り返していたため、一条氏三家老である羽生監物、為松若狭守、安並和泉守などの合議によって、無理やり隠居させられ兼定を岳父である九州の大友氏の元へ追放されたとされています。。。(この辺のすべては長宗我部元親の謀略だったんじゃないかと個人的には思っています)
一条兼定を追放した長宗我部元親は自分の娘を兼定の子内政と結婚させ、この中村城から離し岡豊城から近い大津天竺城に居城を移し『大津御所』として住まわせ、土佐国の統一と支配は長宗我部元親が行ったとされています。
中村城は四万十市中村市街地の北西部にある標高約90mの小さな山(為松山)に為松氏が築いた平山城で、中村城の西には四万十川が東には後川が流れ天然の堀にしていた様に感じます。中村城からはこの中村平野が一望でき戦国時代の城らしさが出ているなぁ~って思いました。
1589年の長宗我部地検帳によると、城が築かれている為松山の頂には『東城 『為松城』 『御城(詰)』 『今城』と呼ばれる4つの城が存在していたと記載されており(中ノ森城を合わせると5つなのかな???)当時の中村城は小さな複数の城が連なっているまた各城は独立していたわけではなく、立式の城郭の城だったと思われ4つの城を総称して『中村城』と呼んでいたんじゃないかと思われます。
因みに・・・一条兼定を追放した長宗我部元親は、西方面を担当させていた弟の吉良親貞を入城させ伊予国攻略の前線基地として備え(次弟の香宗我部親泰は安芸国虎を滅ぼし安芸城に入れ西側の阿波国攻略の中心とさせていた)ていたとされています。関ケ原後は中村藩2万石2代藩主山内政豊時代に石垣などを築いたとされますが、一国一城令により中村城は廃城となったとされています。
中村城 / 為松城画像ギャラリー
現在中村城は『為松公園』として整備されており、桜の名所として地元の方々に愛されているようです。桜は実に約500本!!!!(≧◇≦) 素晴らしい~♪
中村城の城内は本丸付近?頂上部分?全体に土塁が形成されていますねぇ~
これって城内の中であっても、城郭のつなぎの部分には敵の侵入を防ぐ目的で『曲輪』や『堀切』『空濠(からぼり)』が築かれていた跡名かも知れませんね。。。
いいねぇぇぇ~\(◎o◎)/!
やっまり、中村城は同じ山の上に複数の城が築かれていた連郭式山城だったんですねぇ~(^▽^)/
中村城の城内には『樋口慎吾の記念碑』や『南海大地震記念碑』や『幸徳秋水絶筆の碑』など中村に纏わる石碑が立ち並んでいました~
『二の丸跡』には現在天守の形をした模擬城の『四万十市立郷土博物館』が建っていました(o^―^o)ニコ2019年の2月にリニューアルオープンしたらしく、土佐中村の歴史や文化、人物にまつわる貴重な資料が展示されている様です!!!しかも嬉しい入館料は無料の事!!!!(*`艸´)ウシシシ
しかし、私が中村城攻めした時には時間が遅くてもう既に閉館してました・・・( ;∀;)
『二の丸跡』から少し降ったところの斜面に・・・石積み???いや?違うんかなぁ~???
土塁の跡です・・・(〃艸〃)ムフッ
中村城(為松城)攻めの時は時間がギリギリで焦って城攻めをしていました!古い城だったので『土塁』や『空堀』『堀切』などしか残っていないと思い込み城攻めしていましたが、後になって『山内政豊時代の石垣』や『前関白 一条教房の墓』が近くにあったのを見落としていました・・・(´;ω;`)ウゥゥ
やっぱ、焦ったり思い込んだりして城攻めしてはいけないなぁ~反省の多い城攻めとなりました。。。
中村城/為松城情報
築 城 | 不明 |
城 主 | 為松氏、土佐一条氏、山内氏 |
住 所 | 高知県四万十市中村 |
種 別 | 山城 |
廃 城 | 1615年 |
特 徴 | 市指定史跡 |
入場料 | 無料 四万十市郷土博物館:大人:440円(350円)高校生:170円(130円)中学生以下:無料 |
営業時間 | 四万十市郷土博物館:9:00~17:00(入館は16:30まで) |
駐車場 | 有り(無料) |
中村城/為松城へのアクセス
中村城/為松城レビュー
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