後瀬山城の感想
後瀬山城・・・皆さんはなんて読みますか??? 私は『ごせやまじょう』って読んでいましたが、本当の読み方は『のちせやまじょう』って読むみたいです~日本語って難しいぃ~(ノД`)・゜・。
後瀬山城は武田元光(若狭国守護大名六代目当主)によって築かれたと云われています。後に若狭武田氏四代(元光を初代、元明を四代と考えると)の城として栄えていましたが、四代目の武田元光が朝倉義景に一乗谷に連れていかれて不在になったこともあります。織田信長が侵攻してくると朝倉義景を滅ぼし丹羽長秀が後瀬山城に入城すると現在の石垣とかを築いたようですね<(`^´)>
その後、豊臣秀吉が若狭国を支配すると、豊臣秀吉の一族である浅野長政が後瀬山城の城主として入城します。関ケ原後は、京極氏が若狭国の支配を任され、京極高次が入国すると後瀬山城の山城よりも経済圏を考えた小浜城への築城を始めることとなります。後瀬山城はその山城の機能からそのまま残されていたと思われますね(`・ω・´)ゞ
若狭国に入国した京極高次、二代目の忠高の時代には小浜城が完成しなかったので、後瀬山城はそのまま若狭国の居城ととして存続していたと思われます。 後に、京極忠高はもともと守護国だった出雲国に移ることとなると酒井忠勝が若狭国へ入国してきます。京極高次が築城を始め酒井忠勝が大幅な縄張りを拡張し小浜城は竣工すると、後瀬山城から小浜城に移り住んだようです。
1522年に武田元光が後瀬山城跡守護居館跡の裏の後瀬山に築城したことが始まりとされ、後瀬山は標高168mの山頂にに本丸を築き、館(当時は山頂に館があり天守閣とかはなかったと思われます)の周りには数個の曲輪群を配置し巨大な竪堀群と空堀の中には畝(うね)などを要し、空堀と土橋などを配置するなど、当時はなかなかの山城だったんじゃないかと思いますね。(しかも若狭国では巨大な山城だったと思われます) 本丸(主郭)からそれぞれ北北東と北西の2方向に延びる尾根上に、連続して曲輪を配置する構造となっているみたいです!(≧◇≦)
後瀬山城画像ギャラリー
後瀬山城はJR小浜駅の南西にあり、後瀬山城の麓にある愛宕神社から城攻めができ、案内板もあり駐車場もあるのでとても攻めやすかったです!( `ー´)ノ





山道はめちゃめちゃ整備されていますが、急斜面に這いつくばる様に山道が続いており、なかなか厳しい城攻めがスタートします(`・ω・´)ゞ









本丸まで20分!!!! 山城攻めの20分はそーとーなんですよぉ~\(◎o◎)/!



急斜面を歩いてきたのですが、岸切りと考えると鉄壁な急勾配ですね!




土塁と曲輪群が見えてきました!





やっぱり曲輪群ですな!












本丸 と 八幡神社との分かれ道です! 勿論!俺は本丸に攻め込みます~(。◕ˇдˇ◕。)/



尾根沿いに防衛ラインが築かれていますね!!!







本丸手前の曲輪です! 土塁も築かれておりしっかりしたイメージですね<(`^´)>










いいねぇぇぇぇぇぇぇ~山城攻めの醍醐味ですなぁぁあぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ(≧◇≦)




大きな曲輪に出てきました!!! この先には堀切!土橋があるんあぁねぇ~(`・ω・´)ゞ




















本丸に近づいてきましたね~( `ー´)ノ やる気がさらに増幅します!!!後瀬山城~♪♪♪


おおおお!!!石積み?石垣???の残骸(≧◇≦)





おおおおおおおおおお~!!!! 見えてきたぞ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/





やば!!!マジ最高!!! 本丸到着です!(。◕ˇдˇ◕。)/






武田氏城跡だって!!! 地元の方に愛されていますねぇ~(〃艸〃)ムフッ








本丸がこの掘っ立て小屋(休憩小屋)で舘を見立てているんだと思います。
この館を取り囲む石垣たちが、マジで!マジで!マジで!マジで!凄くてかっこいい!( `ー´)ノ








後瀬山城!!!全然知りませんでしたが、絶対に皆さん行ってみて下さい!マジ最高でした!
後瀬山城情報
| 築 城 | 1522年 |
| 城 主 | 武田氏、丹羽氏、浅野氏、木下氏、京極氏 |
| 住 所 | 福井県小浜市伏原 |
| 種 別 | 山城 |
| 廃 城 | 1642年 |
| 特 徴 | 国指定史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 無し(小浜駅前市営駐車場が利用できます。3時間100円) |
後瀬山城へのアクセス
後瀬山城レビュー
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