岡豊城(高知県)

岡豊城の感想

さてさて・・・岡豊城です!!!云わずと知れた長宗我部元親の居城!岡豊城です!!!(*`艸´)ウシシシ♪『岡豊=おこう』と呼びます。(^▽^)/

岡豊(おこう)城は、現在の南国市街の北西にある香長平野の北西、国道32号線沿いの国分川を天然の堀とした北側にある標高97mの『岡豊山』に築かれた山城です。
岡豊城は長宗我部能俊(よしとし)が鎌倉時代初期に信濃から土佐国に移住し築いた城と云われており、そもそも長宗我部氏は朝鮮半島の百済の皇帝が土佐国に渡ってきて土着(帰化)した一族と云われたり、信濃国の豪族だった秦氏(この一族も百済から帰化し秦氏を名乗ったとか?)が土佐国へ渡り土着したととも云われており、岡豊城を築城した長宗我部能俊もはっきりとはわかっていないようですね。。。(もっと云えば能俊が築城したのかも曖昧かもしれません)しかし、岡豊城が鎌倉時代から・・・かなり古い時代から築かれていた事だけはわかりますね。。。

岡豊城の周りは長岡郡宗我部とされておりましたが、近くの場所に香美郡宗我部があり違う一族が宗我部氏を名乗っていたので、長岡郡の宗我部を『長宗我部氏』香美郡の宗我部を『香宗我部氏』と名乗ることとなったようですね。。。何度も繰り返しますが、長宗我部氏と香宗我部氏は別の一族となっております。
長宗我部能俊を初代と考えると・・・十九代目となる長宗我部兼序(ちょうそかべ かねつぐ)の時代に土佐七雄と呼ばれるようになったみたいですね。土佐守護だった細川政元に仕え勢力を拡大していったが細川政元が畿内で暗殺されると長宗我部兼序をよく想っていなかった、本山氏・山田氏・大平氏・吉良氏らが岡豊城を襲撃し長宗我部兼序は滅ぼされてします。息子の国親は側近に守られ西の雄一条氏の下に逃れ育てられます。。。ここで一度は長宗我部氏は滅んじゃったことになりますね(´;ω;`)ウゥゥ

1518年に土佐一条房家の仲介により本領の江村・廿枝郷を戻されて岡豊城に復帰した長宗我部国親は、長宗我部家の再興に尽力しその後は大津城の天竺氏、介良しの横山氏、下田城の下田氏などなど・・・どんどん近隣を攻め落とし、時には娘を嫁がせ懐柔させたり、三男の親泰を香宗我部氏に養子として送り込み香宗我部親泰とするなど急激に勢力を拡大し、とうとう、父を滅ぼした仇敵の楠目城主の山田氏を滅ぼすなどし、もう一人の仇敵だった本山氏に迫りますが志半ばで亡くなり、その意志は土佐国の英雄、長宗我部元親(のちに四国統一を果たす)に引き継がれます。

長宗我部国親の後を継いだ長宗我部元親はこの岡豊城を居城とし、美濃国の斎藤氏から嫁を娶り、次男を土佐国の名門吉良氏へ養子に送り吉良親貞と名乗らせ、三男の香宗我部親泰と共に三兄弟で四国統一を目指し動き出し大きなドラマを生み出しますね~(〃艸〃)ムフッ

岡豊城の山頂部には本丸にあたる『詰』が置かれていたとされ、そこから一段低いところに『詰下段』となっており『二ノ段』『三ノ段(2か所)』『四ノ段(2か所)』と東西南北の四方に並んでいます。本城部分は連郭式の構造となっているみたいですね!

岡豊城は長宗我部元親が四国を統一し、羽柴秀吉による四国攻めが始まり敗れるまで・・・長宗我部元親に改めて土佐一国のみが安堵され、翌年に豊臣秀吉の命により、島津氏に攻められていた大友宗麟の救援のため豊後に派遣されるが、戸次(へつぎ)川の戦いで敗れ、嫡男の長宗我部信親を討死させ失うまでの長年居城として君臨しますが、1588年に最愛の嫡男である信親の影が残る岡豊城から大高坂山城(現在の高知城)に居城を移し、岡豊城は廃城となったと云われています。長年の歴史から解き放した長宗我部元親も凄い武将ですが、鎌倉時代より長宗我部氏を支え続けた岡豊城も凄い城だったと思います♪

岡豊城画像ギャラリー

岡豊城は「続日本100名城」に選定されました名城で、高岡郡津野町(旧東津野村)の山村民家を移設するなど、歴史公園として整備されています!

長宗我部元親像

そして出迎えてくれる!!!!長宗我部元親公の像です!!!!
めちゃくちゃかっこいい!!!!!!!!!!!!(⋈◍>◡<◍)。✧♡

案内板に向かって左手方向!詰所の案内を流して、先ずはグイっと!攻めて!二ノ段を目指します~♪

ニノ段

二ノ段ですな! 案内にあるようにここから見える香長平野の見晴らしはとても美しいですねぇ~♡

小さな森みたいなのが『土佐国府跡』みたいなので、この地域は豊かで経済の中心だったんだなぁ~って案内の説明を読んでいると思いますね~(^▽^)

二ノ段は詰下段や詰などからは堀などの曲輪にわられていた様ですね!

堀切と井戸

おおおおお!堀切と井戸!!!

詰下段と三ノ段だす!(〃艸〃)ムフッ

詰下段

建物の周りには土塁と簡単な石積みなどがあったんでしょうね~

土塁と石積み♪

三ノ段に降りてみますか(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

三ノ段

三ノ段は詰(本丸)の周りをぐるりと囲っている腰曲輪的な感じですねぇ~

四ノ段

詰(本丸)に行く前に四ノ段に行ってみましょう!四ノ段は国分川に向かった南側の曲輪です。

三ノ段・四ノ段には石垣や土塁、北側には虎口もあるようですね!

三ノ段から詰(本丸)に攻めあがります♪♪♪

詰(本丸)

詰(本丸)に到着かなぁ~(^▽^)/~♪

詰に到着です

広いな!!!大掛かりな建物があったんでしょうね~

岡豊(おこう)城です(^_^)v

岡豊城 詰からの景色【動画】

詰の建物跡から岡豊城を楽しみ城下の香長平野を楽しんでみる動画です(●^o^●)~♪

詰(本丸)から三ノ段へ向かってみましょう!

四ノ段の近くに『長宗我部氏岡豊城跡標柱』を見つけました!

四ノ段

四ノ段ですね!

横堀ですなぁ~

長宗我部元親の大ファンの俺からすれば、念願の岡豊城攻めで大満足でした((´∀`*))ヶラヶラ
10年以上前に来たときはまだまだ発掘・整備をしており、今は本当にきれいになって岡豊城の魅力がわかるお城になっていました!!!地元の方々の愛情もよくわかります♪(#^^#)

岡豊城情報

築 城不明(鎌倉時代?)
城 主長宗我部氏
住 所高知県南国市岡豊町1099−1
種 別山城
廃 城1591年
特 徴国指定史跡、続日本100名城
入場料無料
営業時間高知県立民族博物館:9:00〜17:00(※入館は16:30まで)
休館日:年末年始
駐車場有り(無料)

岡豊城へのアクセス

岡豊城レビュー

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