大内氏館跡の感想
『大内氏館跡』は室町時代~戦国時代に周防国・長門国などを治めた守護大名・大内氏の居館であり、現在は『龍福寺』となっており『大内氏遺跡 附 凌雲寺跡』として国指定史跡となっており、龍福寺の本堂が国指定重要文化財となる貴重な場所となっています。
西国の雄となった名将だった大内家24代当主 大内弘世が同族争いを制し山口に大内氏の本拠地を定め大内館を建てたと云われています。大内弘世は京の都に憧れを抱いており、京の都に模した街づくりをするため、京都盆地に酷似した山口に本拠を移したといわれています。大内館を中央に置き街を縦横に区画整備し、街路名を大路・小路と京風にしていたと思われます。
最盛期の館は堀を含めると東西に160m・南北に170m以上の規模の大きな居館であり、京都の足利将軍の館をまねしたとも云われているみたいですね~
当初は溝と堀程度の大内館だった様ですが、戦国時代が始まり多くの戦が始まると大内館の周りも空堀や土塁を築くことになり大規模な館へと発展していた様ですね。大内館の裏山には『詰城』として『高嶺城)』も築かれるようになりました。のちに北側には『築山館』が別邸で築かれるようになり、当時、戦火の続く京都から名族の公家や公方など多くの人が大内氏を頼って山口まで下ってきていたので、庭園を整えた宴のための迎賓館的な館を築いていました。
大内弘世以降も、名将が多く生まれており、大内義弘(25代)大内持世(27代)大内教弘(28代)、そして京にも上がり応仁の乱の際に西軍のTOPとなる大内政弘(29代)大内義興(30代)など、武においても智においても、そして政治においても名将が西日本最大の大大名まで大内家を拡大しましたが、大内義隆(31代)の時に陶晴賢に下剋上され大内義長(32代)となりますが陶氏を討ち取った毛利元就のそのまま大内氏は滅ぼされてしまします。それまでの間、約200年間大内氏歴代の当主はここで政務をとり、西日本の政治・経済の中心地となったのがこの『大内館』です。
大内館画像ギャラリー
大内館は山口バイパスの少し南、山口赤十字病院の隣にあります。直ぐにわかると思います。
真っすぐ続く空堀と土塁で覆われてますね~
石組溝(いしぐみみぞ)
西門
大内館の大門になりますね!
門をくぐり大内館内に入ります!
大内館な雰囲気です~(* ´艸`)クスクス
大内氏を一番飛躍させ西の大大名にした!大内義興の像がありましたヾ(≧▽≦)ノ
(息子の義隆が大内氏を滅ぼしてしまいますが・・・失笑)
大内館跡情報
築 城 | 不明(14世紀末〜15世紀初頭) |
城 主 | 大内氏 |
住 所 | 山口県山口市大殿大路117−61 |
種 別 | 平城 |
廃 城 | 1557年 |
特 徴 | 国指定史跡、続日本100名城 ※続日本100名城スタンプは山口市歴史民俗資料館にて押せます。 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 有り(無料) |
大内館跡へのアクセス
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