扇谷上杉菅領屋敷跡の感想
後に・・・山内上杉氏と勢力を二分し太田道灌と共に南関東、及び、駿河一帯まで勢力を拡大する扇谷上杉氏の館があった場所になります。その後、この地から河越に居城を移し河越城を築いたものと思われます。
上杉顕定という武将が上杉藤成の子として生まれ、後に上杉朝定の養子となります。南北朝時代に入ると上杉顕定は二代目の鎌倉公方となった足利氏満に仕え、扇ガ谷に屋敷を構えたことから扇谷上杉氏が誕生することとなったみたいですね。関東管領職を世襲した山内上杉氏が勢力を拡大する中、扇谷上杉氏も家宰太田道灌の活躍により扇谷上杉氏も勢力を拡大し、山内・扇谷共に関東一帯を席巻していきます!扇谷上杉氏は南関東に確固たる勢力基盤を築いていたはずなのに魔が差すんでしょうね!当時、扇谷上杉氏の当主であった上杉定正は、太田道灌が文武両道の名将であり、河越城、江戸城、岩槻城を築き、名声が高かった太田道灌を疑い始め、ついには扇谷上杉氏の居城である糟屋館で道灌は暗殺してしまいます!?!?!? あほですね!(ー_ー)???
自らの首を絞めてしまった扇谷上杉氏は、伊豆国・相模国で勢力を拡大する北条早雲(伊勢新九郎)にどんどん攻め込まれてしまいいっきに衰退してしまいます。
極めつけは、北条早雲→氏綱→氏康っと三代にわたり扇谷上杉と山内上杉を攻め込み関東支配を強める北条氏に対し、扇谷上杉定正→朝良→朝興→朝定っと四代にわたって防戦一方で衰退の一途をたどってしまいます。扇谷上杉朝定はこれまで宿敵だった山内上杉憲政や古河公方足利晴氏とも手を組んで、1546年に6万5千の大軍をもって河越城を囲みます!(因みに、籠城するは猛将北条綱成は3千の兵をもって半年間籠城) 今川氏と戦っていた(駿東の乱)北条氏康は急遽停戦し河越城へまで8千の兵を率いて駆けつけ、見事!!!あの有名な『河越の夜戦(日本三大夜戦)』にて8千の兵で6万5千の両上杉・足利連合軍を打ち破り!扇谷上杉朝定は河越の夜戦で討死してしまうため、ここで扇谷上杉氏は滅亡してしまいます・・・
扇谷上杉菅領屋敷跡画像ギャラリー





扇谷上杉菅領屋敷跡情報
築 城 | 不明(1438年ごろ?) |
城 主 | 扇ヶ谷上杉氏 |
住 所 | 神奈川県鎌倉市扇ガ谷2丁目4−3 |
種 別 | 平城 |
廃 城 | 不明 |
特 徴 | – |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し |
扇谷上杉菅領屋敷跡へのアクセス
扇谷上杉菅領屋敷跡レビュー
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