臼杵城 / 丹生島城 / 巨亀城 / 金亀城 / 亀城(大分県)

臼杵城 / 丹生島城 / 巨亀城 / 金亀城 / 亀城(大分県)

臼杵城です(o^―^o)ニコ
臼杵城はその昔、大友宗麟の居城として知られその頃は丹生島(にゅうじま)城と呼ばれていました。

臼杵城を見上げて!率直に『異様な城だな!』って強烈に感じました( `ー´)ノ!?
一目見て普通のこれまでの平山城とは全然違うと違和感を感じていました。
なんていうか・・・『岩の城』って感じです!!!


それはそのはず『丹生島』とある様に、臼杵川の河口近く臼杵湾に浮かぶ東西約420m、南北約100mの丹生島の上に築かれ、北南東は三方が海に囲まれた断崖絶壁という天然の要害で、西は干潮時に現れる干潟の陸地でつながるのみという天然の要害をなしていたと思われる、丹生島と呼ばれた島に大友宗麟は築城したんだと思います。今は埋め立てられているので全く気が付きませんでしたが、昔は『海』であったと云う事です。また、丹生島城の『丹』の文字は『鉱物の辰砂(しんしゃ)』という硫化水銀(水銀と硫黄)という意味が含まれている様で、丹生島とは『金属鉱石の産出する島』鉱物が取れる島という意味らしく、よって『金亀城』とも呼ばれていたんですね。。。

1562年に大友宗麟が築城したと云われており、臼杵に移る1年前の1561年に毛利氏との戦いに敗れた大友宗麟は府内の大友館から臼杵に移ったとされていますが、それまでにも家臣団たちの離反が続き反乱から逃れるため臼杵に移ったとも書簡に書かれていたりもします。また、大友宗麟が1557年前後には安定しない府内から 新たに臼杵に本拠を移すことで、臼杵の湊と城下町が一体化した経済都市を創り出し、安定的に直接支配する体制を構築しようとしたともされています。

大友宗麟が亡くなったあと、後を継いだ大友 義統(おおとも よしむね)は豊臣秀吉の傘下に入ることで大友の家を維持させ秀吉からも厚遇を受けますが、朝鮮半島への侵攻の際の落ち度が秀吉の逆鱗に触れ、大友氏は改易となり大友氏は滅亡。。。大友領であった豊後および豊前の宇佐半郡は豊臣家の蔵入地(直割地)となってしまいました。大友氏の滅亡後は、1593年に豊臣系大名の太田一吉が入城。土で固められ檜皮葺の御殿や屋敷が建ち並んでいた城、に石垣を築き瓦葺の建物が軒を連ねる城に改修し、臼杵城は31棟の櫓と7棟の櫓門で固められたみたいですね。また、干潮時にだけ西側の砂州が現れて陸地とつながる純然たる島だったが、太田一吉はこの砂州を埋め立てて三の丸を整備し半島状態にしたみたいですね。。。(^▽^)/

1600年の関ヶ原合戦以後は、美濃(岐阜県南部)から稲葉貞通(あの!稲葉良通(一鉄)さんの次男です!(〃艸〃)ムフッ)が臼杵に入国し城内をさらに整備。以後、明治を迎えるまで稲葉氏が15代にわたって城主を務めた様です。(●^o^●)

【臼杵城】

臼杵城の目の前の駐車から・・・・岩の城!臼杵城の貫禄が出ていますね。。。

近づくと・・・

臼杵城の入口、二の丸大手口の前にはかつて海水を引き込んでいた堀があり、古橋と呼ばれる石橋がかかる。

落石防止なのか?一部改修を行っているのか?多少ごちゃごちゃしていましたが、岩の城のイメージがどんどん感じてくる城ですね!

石垣も爽快です!!!!

『中門櫓跡』です!

中門櫓を越えて左手に向かうと『大門櫓跡』があります!

大門櫓跡から『二の丸』に突撃します(/・ω・)/

『二の丸』跡ですね!!!

『稲葉歴代藩主とその時代』だって!(〃艸〃)ムフッ 一鉄♡

城内の石垣もしっかりと見られますねぇ~(⌒∇⌒)

『天守跡』に向かいます( `ー´)ノ

城内の土塁かな???(* ´艸`)クスクス

『鉄門(くろがね)跡』です!

『鉄門枡形石垣(くろがねもんますがたいしがき)』跡です!臼杵城本丸の正面に設置された鉄門と石垣で『築石(つきいし)』が石垣に用いられている様です!

臼杵城の『本丸』に到着です(*`艸´)ウシシシ!!!!!!

本丸から『卯寅口門脇櫓(うとのくちもんわきやぐら)』が見えますね!この櫓は鉄砲薬櫓とも呼ばれていたみたいで火薬庫として使われていた様です。。。
その横には『卯寅稲荷神社』があり赤い鳥居が連なっていますねぇぇ(・□・;)

『武具櫓台石垣』です!

『儀太夫前櫓跡(ぎだゆうまえやぐらあと)』だす♪

『時鐘櫓跡』!!!ゴーーーーーン♪

臼杵城攻めを終えて大満足なのですが(* ´艸`) あえて独特の岩の城周りをぐるぐる歩いてみました!!!!  本当に独特な特徴のある岩城!臼杵城です♪

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