平安時代から大里郡一帯を支配していたのが、武蔵七党のひとつだった猪俣(いのまた)党の猪俣政行(花園城https://jh.irukamo.com/post-28350/を築城)が、武蔵国榛沢郡藤田郷(現在の埼玉県寄居町)に入り、猪俣氏→藤田氏と称したのが始まりだと云われています(^▽^)/
1546年の『河越夜戦』で主家の山内上杉氏が後北条氏に敗れると北条氏康に降伏し、当時の当主だった藤田康邦は北条氏康の五男氏邦を養子に迎え入れて、花園城https://jh.irukamo.com/post-28350/と天神山城を譲り、自らはこの用土城を築き藤田康邦から用土新左衛門として名を変え隠居城として用土城を築いたんじゃないかと云われてるみたいですね。。。武蔵国では有力な国人衆であった藤田氏・猪俣氏の名を棄てて用土新左衛門と名を変え用土城を築き隠居するなんて・・・北条氏康の北条氏邦(藤田氏邦)を養子に迎え入れることは、そぉとぉ~に!!?!?!?屈辱的だったんじゃないかと想像します。。。話は余談になりますが・・・この思いは将来に影響してきたと思われ、用土新左衛門の嫡男だった、(用土?藤田?)弥八郎重連は北条氏邦に沼田城の城代を任されていましたが1578年に北条氏邦との確執から殺害されてしまいます。。。弥八郎重連の弟、藤田信吉であるは弥八郎重連が北条氏邦に殺害されると、北条氏から離反し武田氏に仕えた後は上杉景勝に仕えています。。。しかしながら・・・1600年に上杉景勝のもとを出奔してしまい、徳川家康の元に駆け込み『上杉景勝謀反』の報をもたらした人物として知られているみたいですね~(+o+)
また、藤田氏の本流であった猪俣氏も
屈辱的講和を受け入れた。氏邦に家督と居城の天神山城を譲った康邦は用土新左衛門と名乗り、自らの隠居城として用土城を築き隠退した。嫡男の弥八郎重連は氏邦に沼田城の城代を任されたが、天正6年(1578)に氏邦との確執から殺害された。
嫡男の弥八郎重連は氏邦に沼田城の城代を任されたが、天正6年(1578)に氏邦との確執から殺害された。重連の弟とされるのが戦国の世を渡り歩いた藤田信吉である。重連の殺害後に北条氏から離反し武田氏に仕えた後は上杉景勝に仕えた。慶長5年(1600)に景勝のもとを出奔し、徳川家康に景勝謀反の報をもたらした人物として知られている猪俣邦憲(いのまたくにのり)が真田氏の城だった名胡桃城https://jh.irukamo.com/nagurumijo/を襲撃し乗っ取ってしまします!?このことが豊臣秀吉のトリガーとなり『小田原征伐』のきっかけになっています!
『きっかけ作り』が上手な一族なんですかね???((´∀`*))ヶラヶラ
【用土城】
用土城・・・今は石碑があるだけです!(/ω\)





