稲富一徳斎の墓(京都府)

稲富一徳斎の墓(京都府)

稲富一徳斎は稲富祐直(いなとみすけなお )といい、初名は直家と云われており『伊賀守』を名乗っていました。 なぜ『伊賀守』かと云えば、稲富氏は、元々は鎌倉時代末期ごるは伊賀国に住んでいたとされ、伊賀国から丹後国に移り住み、当初は『山田氏』と名乗っていましたが移り住んだ土地が『稲富保(いなとみのほ)』と呼ばれる港町だったことから『稲富氏』を名乗った様ですね。
祖父の稲富相模守直時が鉄砲技術を磨き独創的な原型を作った技術を『稲富流砲術』として立ち上げ、佐々木義国を招いて砲術を研究して奥義を取得した人物(砲術流派に佐々木流があるみたいですね!)らしく、それを息子の稲富直秀と孫の祐直に伝えました。孫の祐直(後の稲富一徳斎)はさらに工夫と鍛錬を重ね『稲富流鉄砲』を開祖し『一流一返之書』という伝書を残しています!


これまで全然知りませんでしたが、凄い武将がここにもいたんですね~(。◕ˇдˇ​◕。)/
凄い発見が出来て本当に城巡り・歴史巡りは本当に楽しいですね~♪♪♪

弓木城https://jh.irukamo.com/yuminokijo/を築き弓木城の城主だった稲富氏は、丹後国守護大名の一色氏の傘下にありました。織田信長の重臣、明智光秀が丹後国に攻め込みますがなかなか苦戦し、丹後国守護の一色義道と丹後国を一旦安堵し傘下に治めますが、一色義道が織田傘下から何かしらの理由で決別し離反したため、織田信長は今度は細川(長岡)藤孝・忠興親子に丹後国の制圧を指示し侵攻してきます。細川親子に押された一色義道・義定は居城の建部山城から逃げ出し、丹後中山城へ一旦引きますが、丹後中山城主https://jh.irukamo.com/post-33660/の沼田幸兵衛に裏切られ一色義道が謀殺されたため、息子の一色義定は稲富祐直がいる弓木城に逃げ込みます。弓木城では稲富祐直率いる稲富軍鉄砲隊や武勇に優れた一色義定らの活躍により、一色軍はこれを撃退し続けます。 

稲富氏はその後、数々の大名の先に鉄砲の師範代として雇われ稲富家は存続していくようですね!
その開祖(稲富流鉄砲)が稲富一夢斎こと稲富祐直です(`・ω・´)ゞ

【稲富一徳斎の墓】

稲富一夢斎の墓は京都府宮津市にある知恩寺にあります<(`^´)>

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