本庄宗秀・宗武の墓(京都府)

本庄宗秀・宗武の墓(京都府)

本庄宗秀・宗武は宮津藩の最後の藩主として知られており、本庄氏は近世大名家であり華族の子爵家でもあります。本庄松平氏の流れであり本庄宗秀は松平宗秀の名の方が有名なのかもしれませんね。
本庄(松平)宗秀は幕末時代幕府の老中職として務めており、第二次長州征討にも幕府側の軍として従軍し副総督を務ており、その際に長州藩の捕虜を釈放したり独断で休戦協定を締結したために老中職をとかれてしまい謹慎・蟄居になった様です~(@_@)??? その後、本庄宗秀は伊勢神宮の大宮司になり1873年に死去。
本庄氏を継いだ本庄宗武が最後の宮津藩主となりますが、江戸幕府が倒され新政府になると本庄氏も謹慎がとかれ、本庄宗武は教部省の職に就くことになったようです。
1868年に江戸幕府最後の将軍だった徳川慶喜が新政府に反逆を開始した際に勅命に従って松平姓を廃棄し本庄姓(正確には本荘)に復姓したみたいです。

その本庄宗秀・宗武親子の墓が大久保山城/大窪山城https://jh.irukamo.com/post-33597/の麓の桜山天満宮の向かいにありました。

【本庄宗秀・宗武の墓】

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