宮津城(京都府)

宮津城(京都府)

宮津城にはてこずりました・・・(ノД`)・゜・。
細川(当時は長岡姓)藤孝(名将ですねぇ~♪)が築城した宮津城だったので、めちゃめちゃ興味があり城攻めしてみましたが・・・ほぼほぼ城郭は住宅地として再開発され跡形も無くなっていました・・・(´;ω;`)ウッ…  それでも宮津城の形跡を追い宮津市の市内をあっちに行ったりこっちに行ったり右往左往です!
丹後国守護大名の一色氏を滅ぼした細川藤孝は丹後国一国を織田信長よりもらい受けます。
当初は一色氏の居城だった宮津八幡山城に入城しますが、織田信長の命により山城から海岸沿いに城を築くことになり宮津城を築くことになります。今も場所的には海に接した城だったことはわかりますが、当時は河口から海に突き出した海城だったと思われ、この海津城の付近は海運・貿易の重要な要害だったんではないかと思われます。

1582年に明智光秀が本能寺の変を起こし織田信長を自害に持っていきました。明智光秀と細川藤孝は昔から苦楽を共にした盟友ではあったものの、明智光秀側に付くことを細川藤孝は拒否します。明智光秀への協力を拒むために『幽斎』と称し田辺城https://jh.irukamo.com/tanabejo/に隠居し、宮津城は息子の細川忠興に居城として譲ります。
1600年には関ケ原の戦いが勃発し石田三成が打倒!徳川家康を訴え挙兵します。細川幽斎と忠興親子は徳川家康(東軍側)に付くことを宣言するため、細川ガラシャは石田三成に捕まり細川ガラシャはキリシタンのため自害できず、大阪で西軍(石田三成方)の奉行衆が忠興の妻ガラシャを人質に出すよう要求したが拒絶!!!小笠原少斎がガラシャを介錯して切腹して屋敷に火を放ったと云われています。外国の宣教師の記録には、細川ガラシャは祈りを捧げたのち共に死ぬことを願う侍女たちを屋敷から退避させ、跪いてイエズスとマリアの御名を繰返し唱えると小笠原少斎によって首を落とされたと記載されているようですね。

関ケ原の戦いの際は息子の細川忠興は徳川家康と共に会津征伐に従軍しており、留守を預かっている細川幽斎は石田三成の西軍が攻めてくると、宮津城と城下を焼き払い田辺城に籠城しました。『田辺城の戦い』と云われる攻防戦を繰り返し時間を稼ぎ開城しました!( `ー´)ノ

【宮津城】

宮津城は宮津市内に分散され城跡が残っています

ここはわりと有名ですね! 宮津城太鼓門です(∩´∀`)∩ 現在は小学校!?!?!?

宮津城に流れる大手側には石垣の跡かな??? だといいなぁ~(=゚ω゚)ノ

宮津市内には細川ガラシャの碑が・・・

この地図を頼りに本丸を探すと・・・

本丸は『テナント募集』されていました!(´;ω;`)ウゥゥ

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