砕導山城(福井県)砕砕導山城(福井県)

砕導山城(福井県)砕砕導山城(福井県)

砕導山城の感想

『砕導山⇒はどうやま』と読むのかなって思っていたら『砕導山⇒さいちやま』って読むんですね!日本語って難しい!?((+_+)) 
砕導山城(さいちやま城)は逸見昌経によって築かれた城です。これまた難しいなぁ~って思うのが、『逸見⇒いつみ』ではなく『逸見⇒へみ・へんみ』と呼ぶそうです!?これまた((+_+))!!!
逸見氏を少し深堀すると、ルーツは甲斐源氏の流れを組むみたいで、甲斐の武田・安芸の武田・甲斐の武田の三つの武田氏の家臣としてルーツも分かれていったみたいですね・・・上総国の武田もそうかもしれません。

砕導山城を築いた逸見昌経は若狭国の守護大名武田信豊に仕え、室町幕府の菅領 細川晴元の命により丹波国の各地で武田信豊と共に逸見昌経も戦ったと記されているみたいですね。
丹波国での転戦後、若狭国に戻った武田信豊は隠居し息子の武田義統(たけだよしずみ)に若狭国守護大名を譲りますが、武田信豊と武田義純との対立が始まると逸見昌経は隠居した武田信豊側に付き若狭国武田氏と対立!武田信豊・逸見昌経VS武田義純とで戦うが敗北し、隣国の丹波国の松永長頼力を借りて再び軍を起こしますが、武田義純は越前国の朝倉義景の協力を得て戦い逸見昌経は敗北してしまい、この砕導山城に武田信豊と共に籠ります・・・が同年和陸をします。
丹波国の松永氏(松永氏→内藤氏)が再び攻め込み若狭国武田氏の城を攻略し始めると、逸見昌経は高浜の新たな城を築き入城します。(高浜城)水軍を編成し武田義純を攻めますが逆にやられてしまい、高浜城に武田義純が入城してしまいます。(しかし・・・何回負けんねん!?(@_@))
1567年に若狭国守護大名の武田義純が死去すると、継いだ武田元明は頼った朝倉氏に殆どが支配され武田元明自身も朝倉氏の一乗谷に移送・軟禁された様です。若狭国の領地は朝倉氏が抑える中、既に若狭武田氏から独立していた逸見昌経は高浜に再び攻め込み大飯郡西部の平定に成功したみたいですね!( `ー´)ノ
その後、織田信長が侵攻してくると織田信長に従い朝倉・武田軍との戦いのため、越前国への侵攻も従軍したみたいですね。織田氏の家臣団の一つである若狭衆の筆頭として織田氏に仕えた。織田信長から高浜城5,000石の城主として認められ、更に、石山3,000石も追加されたようです。

そんな逸見昌経の居城 砕導山城は佐伎治(さきち)神社の背後にそびえる比高100mの山稜に築かれた山城で、東西約900m、南北約500mの規模を持ち福井県では最大級の山城とも云われています。(個人的には国吉城もかなりの規模だと思いますが・・・)基本的に曲輪・切岸・堀切を多用した、極めてスタンダードの山城だなって感じました(。◕ˇдˇ​◕。)/

砕導山城画像ギャラリー

砕導山城は佐伎治(さきち)神社の裏手に築かれた山城です。佐伎治(さきち)神社から砕導(さいち)山城って名前になったんっすかね? それだったらかなり無茶あるよなぁ~((´∀`))ケラケラ

ここから砕導山城へ侵入できます!

いざ!!!!砕導山城へ!!!!!!!!

草で覆われてわかりずらいが、この辺は小さな曲輪が連続して築かれており天王山と云われる場所だと思われます。

土塁と切岸が築かれていますね!(わかりずらくてすみません!)

少しここからは二段の空堀なんでしょうか??? 連続した土塁かな???

お!少し開けてきた! 開けてきたら『←天王山曲輪 千丈ヶ嶽→』と書かれた案内板が出てきました(。◕ˇдˇ​◕。)/ 

尾根伝いに進んでいきますが、切岸や空堀など見どころはありますね!

少し広い曲輪に出ちゃいましたね!(‘◇’)ゞ

高浜城方面がここから見えますね! 素晴らしい風景です!(∩´∀`)∩

尾根沿いに進みますが大規模な山城ですすなぁ~<(`^´)>
建物があったんだと思います。足元には加工された石跡がありました♪

堀切

堀切です( `ー´)ノ

最後は砕導山城の山中で迷子になりパニックになっちゃいました(ノД`)・゜・。
ピンクのテープを頼りに何とか下山できました。しかし、全然違う場所に下山してしまいました!

もう一度チャレンジしたい山城でした!(`・ω・´)ゞ また逸見氏も調べてみたいですね~♪

砕導山城情報

築 城不明(1506年?)
城 主逸見氏
住 所福井県大飯郡高浜町宮崎34−9−1
種 別山城
廃 城1565年
特 徴
入場料無料
営業時間
駐車場有り(無料:佐伎治神社の駐車場を利用できます)

砕導山城へのアクセス

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