私部城 / 交野城(大阪府)

私部城 / 交野城(大阪府)

私部城は『さきのべ』城と読むようですね~難しい~(*´ω`*) 文献か何かに『サキノヘノ城』と呼ばれる城が出てくるようです。また、この地点は交通の要所から『片野』と呼ばれていた様で、片野から『交野』となり、交野(かたの)城とも呼ばれていいた様ですね( ̄▽ ̄)
築城は1558年~1560年頃だと云われ安見右近によって築城された様です。安見氏は元々畠山氏の家臣でしたが、畠山氏が三好長慶に敗れ没落するとそのまま三好氏の被官になったんじゃないかと思われ、その後は松永久秀の配下に組み込まれます。
織田信長が足利義昭を伴い上洛すると松永久秀は三好長慶に滅ぼされた畠山氏と手を組み、1568年には足利義昭の下に畠山高政・秋高兄弟と三好義継、松永久秀は帰参します。その結果、織田信長ともつながりが出来た様で、その頃、三好義継は飯盛山城https://jh.irukamo.com/iimoriyamajo/から若江城に拠点を移したらしく、信長公記に『高屋に畠山殿、若江に三好左京大夫、片野に安見右近』と記載されており、私部城/交野城城主の安見右近の位置づけも非常に高まっていたと思われます(o^―^o)ニコ
しかし、1571年に突如!?畠山秋高・和田惟政と連携して企てを起こそうとしていると、松永久秀・久通親子にいちゃもんをつけられて奈良の西新屋に呼ばれて切腹させられてしまいました!(松永久秀は相わからず酷いやっちゃ~ですねぇ~(+_+)) 安見右近を追い詰めて殺した理由に織田信長の家臣だった佐久間信盛の娘を妻に迎えており、佐久間信盛を通し織田信長と関係が深かったため、織田信長に反旗を掲げる前に安見右近を排除する必要があったんじゃないかと思われます。
安見右近が殺害された後、私部城/交野城は一族とみられる安見新七郎が城主として守ります。1572年に松永久秀に攻められますが、織田信長から佐久間信盛や柴田勝家の援軍を得て私部城/交野城を守り切ります!!!その後、安見氏は佐久間信盛と繋がりをもって『河内の取次者』として従い続けますが、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の合戦頃から安見氏の名前を聞かなくなります。明智氏側にでも付いて滅ぼされちゃったかな??? 案内板には安見氏の一族は伊予国や加賀国に移り住んだり、鉄砲の師範代になった一族もあると記載されていました!(`・ω・´)ゞ

【私部城/交野城】

交野城は交野市の北方にあります。東西に延びる丘陵・免除川を堀とする平城で現在は住宅地の飲み込まれています!

トラロープが張っていましたので中に入れず、ぐるっと回って反対側に行ってみました( `ー´)ノ

おおおおおおお反対側は道路に大きな看板と少し高い地に私部城/交野城がありました!

本郭・二郭・三郭がある様ですが、ウロウロしてみたもののどこがそうなのか自分にはよくわかりませんでしたが、住宅地に沿って高低差のある土塁は築かれていました!

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