里見家墓所の感想
この伯耆国で『里見』の名を聞くのに意外な方がいらっしゃる(私自身もそうです)と思いますが、打吹城の麓の大岳院に安房国の館山城10代目の城主だった里見忠義の墓がありました。
里見忠義は1614年に江戸幕府内の勢力争いに巻き込まれてしまい、大久保忠隣に連座し転封を命じられ伯耆国倉吉に国替えされてしまいます。しかも、倉吉3万石とされていたのですが実際は4千石しか与えられず打吹城にすら入城できなかった様です。その際にこの大岳院の門前に居住したと云われています。1617年に池田光政が鳥取城に入城すると倉吉郊外の下田中村に里見忠義は移され、さらに1619年に堀村(倉吉市関金町堀)に移されてしまいます。そして1622年に病魔と闘っていた里見忠義は病死してしまい29歳の若さで世を去ってしまったようです。
余談ですが・・・里見忠義が亡くなると近臣の8名が忠義の後を追い殉死してしまいます。里見忠義の法号は「雲晴院殿心叟賢涼御大居士」と云い、その中の『賢』字を用いて殉死した8名の法名にもすべてに『賢』の文字を使ったことから『八賢士』と呼ばれるようになり、後の『南総里見八犬伝』のモデルになったとも云われていますヾ(≧▽≦)ノ
里見家墓所画像ギャラリー



里見忠義公の墓
『里見家墓所』は大岳院の門をくぐり進み直ぐ右手間の所にありました( `ー´)ノ


里見八賢士の墓
『八賢士』たちのお墓もありました(`・ω・´)ゞ



里見家の墓情報
年 代 | 1622年没 |
住 所 | 鳥取県倉吉市東町 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | 8:00~17:00 |
駐車場 | 有り(無料) |
里見家の墓へのアクセス
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