鳥取城 / 久松城 / 久松山城(鳥取城)

鳥取城 / 久松城 / 久松山城(鳥取城)

鳥取城 / 久松城 / 久松山城の感想

鳥取城は1532年~1555年頃に山名氏によって築かれたと云われ、標高263mの久松山の山頂(って云うよりは山全体!?)に築かれた山城です。鳥取城って云いますが、久松山に城が築かれたことから『久松城(きゅうしょうじょう)』『久松山城(きゅうしょうざんじょう)』という別名もあります。ただ、今の鳥取城は江戸時代に入ってから池田輝政の孫の池田光政が鳥取藩32万石の平山城として拡張整備したのがはっきりと残っている現状みたいですね。しかも当時は姫路城大天守の築城に携わった職人たちが鳥取城の天守台を築いたことから『姫路城の弟城』と呼ばれていたみたいで、当時はさぞ豪華絢爛の鳥取城だったんじゃないかと思います。

その一方で・・・鳥取城は織田軍の山陰侵攻に備え毛利軍は名将の吉川経家を鳥取城に入れて籠城させますが、織田軍の総大将豊臣秀吉が鳥取城を2万の大軍で約12kmに掛けて封鎖し息の根を止めに行きます。鳥取城を一躍有名にする『鳥取城の渇え殺し』です!これは秀吉の『三大城攻め(三木城・備中高松城・そしてここ鳥取城)』のひとつとして数えられています。

鳥取城は因幡国の山名誠通が築いたと云われていますが、最近の研究では因幡国の山名氏と同族敵対していた但馬国の山名祐豊が築城したのではないかと云われています。しかし、鳥取城の文献で初めて出てくる武将は武田高信で武田高信(若狭武田氏の庶流らしく因幡国に武田氏がいたことを初めて知り驚きました!( ̄▽ ̄;)は山名誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけこの鳥取城を拠点とし因幡国の守護大名山名豊数を鹿野城に逃亡させ山名豊弘を担ぎながらも下剋上を果たした様です。その後、主君筋の山名豊国としばしば対立していたようですが、その頃から毛利氏と誼を通じます。その後、山名豊国と尼子復興掲げる山中鹿之助率いる尼子残党軍と結びと鳥取城を攻撃!武田高信は降伏し、その後、武田高信は山名豊国に謀殺されてしまいます。山名豊国は因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されるが、同年にキレた吉川元春に攻められて山名豊国はあえなく降伏・・・毛利豊元が鳥取城主となりますが1572年に再び山中鹿之助率いる尼子残党軍に攻められてこれまた降伏・・・尼子の残党軍が鳥取城の城主となりますが毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き、再び山名豊国が城主に落ち着いたようですね(=゚ω゚)ノ
1580年、今度は織田軍の総大将 羽柴秀吉が鳥取城に攻めかかります(第一次鳥取城攻め)山名豊国はわずか3ヵ月の籠城で降伏してしまいます。鳥取城を山名豊国に任せ織田軍が引くと、同年、毛利氏が鳥取城を攻撃し山名豊国は直ぐに降伏・・・ここで因幡国守護大名の山名氏は歴史から消えてしまいます・・・(´;ω;`)ウゥゥ 鳥取城主には牛尾春重など数々の城主を据えますが、1581年3月に吉川経家を城主に構え鳥取城の強化を図ります。 それからの鳥取城は上記に書いた通り豊臣秀吉の第二次鳥取城攻めが行われ、『鳥取城の渇え殺し』と云われる壮絶な死が展開されます。 吉川経家っていう名将をめちゃくちゃ残念なのですが、ここで失うことになります( ノД`)シクシク…(私は根っからの毛利氏好きです!!!その他の方々はすんません!( `ー´)ノ)

鳥取城画像ギャラリー

行った日は連休だったのでめちゃくちゃ駐車場がありませんでした!少し離れた場所の駐車場にクルマを停めて歩いていると・・・マジで鳥取城の威圧感にやられていました・・・体がボロボロなのにこの山城行くの・・・(´;ω;`)ウッ…失笑

水堀

しっかりとしたお堀と石垣ですねぇ~(*´▽`*)

西坂下御門跡

さてさて・・・ファーストコンタクト! 西坂下御門跡に突撃しますね( `ー´)ノ

気合が入りますね!!!!!!!!!!!(`・ω・´)ゞ
西坂下御門跡から・・・攻撃的な石垣のオンパレードです♪♪♪

うへぇぇぇ~エグ!!!凄い迫力だなぁ~(〃艸〃)ムフッ

二の丸下

先ずは越えましたねぇ~(●´ω`●) ここが・・・二の丸かなぁ~♪

え???古墳ってこれなんかなぁ~???(。-_-。)

さてさて・・・更に上に進みますかねぇ~(●´ω`●)

二の丸

たぶんですが・・・二の丸に到着だと思います~(。◕ˇдˇ​◕。)/~笑笑

見晴らしがいいですねぇ~(●^o^●)

石切場

近くに『石切り場』があり、これまた西日本特有なのか?鳥取城も優良な岩・石が採れる岩山を利用して鳥取城を築城したのかも知れませんねぇ~(≧◇≦)

三階櫓跡

三階櫓跡ですなぁぁぁぁ~

なかなかの風景ですなぁ~至福の時♡ (●^o^●)

ふむふむ・・・天球丸・巻石垣は後で確認していきましょうかぁ~♪

表御門跡

先に、表御門跡から進んでいきます( `ー´)ノ

天球丸跡

天球丸跡です!!!岩桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人だった天球院が山崎家を出てここに移り住んだことから天球丸(曲輪)と呼ばれることとなったようです。『風呂屋御門』や『三層櫓』があったようですね。

天球丸の石垣の下には、全国でも珍しい唯一の『巻石垣』が有名ですね~(o^―^o)ニコ
この『巻石垣』は、天球丸の石垣崩落を防止することを目的に江戸時代の終わり頃に築き足されたとされており、他の城にもあるのですが球体なのはこの鳥取城だけですねぇ~(●^o^●)

さてさて・・・どんどん進んでいきましょう 
ちょっと天球丸跡を振り返ってみちゃったりしながら~(*`艸´)ウシシシ

上山ノ丸1合目

お!? どぉやら・・・ここが鳥取城から上山ノ丸までの登山ルート1合目!みたいです(ー_ー)!!
何合目まであるんだろう・・・とりあえずスタート!します!(`・ω・´)ゞ

上山ノ丸2合目

激しい岩山の道だなぁ・・・(ノД`)・゜・。 なかなか足がしんどい!(´;ω;`)ウッ…
二合目に到着しました! 急がないと日が落ちる! けど足が全然動きません!?

上山ノ丸3合目

三合目に到着です!(+o+)  足がぁぁぁぁぁぁ~

上山ノ丸4合目

四合目に到着・・・ここでかなり心が折れています( ノД`)シクシク…

上山ノ丸5合目

五合目に到着!?!?
はっきり言って、登りの中間点って考えたときに『無理だ!』って思っていましたが、上から高齢な方と子供たちがワイワイと下りてくるもんだから・・・負けたくないと心を立て直しました( `ー´)ノ
常に加工された石や岩には満足し萌え萌えしてはいるんですけどねぇ~苦笑

上山ノ丸6合目

六合目に到着!え!マジ!!!クマ出没注意!?!?!?
岩を巧みに使った構造物が何ともいい感じですなぁ~(∩´∀`)∩ 一方、私の体は悲鳴を上げてギシギシいっています((+_+))

上山ノ丸7合目

七合目に到着!!!急勾配で本当にヘロヘロ状態です\(◎o◎)/! よくここまで登ってこれたと自分を褒めたいですね~失笑

上山ノ丸8合目

八合目に到着!!!この辺までくれば少しだけ山城感が出てきました(+o+) 岩を利用した門跡かな???  あと少しなので踏ん張らないと!ですね~\(◎o◎)/!

上山ノ丸9合目・山伏の井戸

九合目に到着です!!!『山伏の井戸』などが見られます!本丸近くに井戸があるなんて、鳥取城も堅固な山城だったんだと感じます。ラストですね~(。◕ˇдˇ​◕。)/~ファイヤってかぁ~!?!?!?

これを登り切れば・・・いよいよ山上ノ丸と呼ばれる久松山の山頂にある二の丸・本丸に到着できると思います~( `ー´)ノ おおおおおおおお!!!!

おおおおおおおおおおおおお! ついに!山上ノ丸に到着しました~ヾ(≧▽≦)ノ

見晴らしは・・・間違いなく最高ですね!ヾ(≧▽≦)ノ これも山城攻めの醍醐味!

『史跡 鳥取城跡附太閤ヶ平』の説明です。 第二鳥取城攻めの際 豊臣秀吉は、鳥取城と繋がっている山に大規模な本陣を引き多くの武将を配置したようで、そこを太閤ヶ平(たいこうがなる)と呼ぶようですね(=゚ω゚)ノ

山頂を中心とした山上ノ丸は、久松山を大きく切り開き、その廻りを高い石垣で囲っていますなぁ~

山上ノ丸・二の丸跡

山上ノ丸・二の丸跡です(∩´∀`)∩

本丸に進みます!!!( `ー´)ノ

山上ノ丸・本丸

本丸に到着です~ヾ(≧▽≦)ノ~♪♪♪ 本丸にも井戸があるなんて!!!

車井戸

【動画】山上ノ丸天守台

鳥取城の天守台から!!!(^^♪ 最高の風景をどうぞ!!!(。◕ˇдˇ​◕。)/

太鼓御門石垣

帰りは丸の内の隣の『太鼓御門石垣跡』を楽しみながら、『中ノ御門』を抜けて鳥取城攻めを終了しました( `ー´)ノ

中ノ御門(大手門)

擬宝珠橋(ぎぼしばし)

『擬宝珠橋』を渡って!鳥取城攻めを終了しまーす(●^o^●)

鳥取城情報

築 城不明(天文年間1532年−1555年ごろ?)
城 主山名氏、武田氏、吉川氏(毛利氏)、宮部氏、池田氏
住 所鳥取県鳥取市東町2丁目124
種 別平山城、山城
廃 城1871年
特 徴国指定史跡・日本100名城 ※日本100名城スタンプは鳥取県立博物館で押せます。
入場料無料
営業時間
駐車場有り(無料:鳥取県庁北側駐車場)

鳥取城へのアクセス

鳥取城レビュー

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