伝 尼子晴久の墓の感想
尼子晴久の墓は月山富田城本丸の南側麓の森の中にありました。
尼子晴久は尼子政久(尼子経久の長男)の次男として生まれ、政久が阿用城攻めの際に討死してしまったため、年少ではありますが尼子家を継ぐこととなります。勿論、尼子経久は健在で高齢になるまで尼子晴久を支え続けます。
尼子晴久は当初 詮久(あきひさ)と名乗っていました。尼子詮久は尼子経久の命により、伯耆守護代として伯耆守護の山名 澄之(やまな すみゆき)を監視する役割を果たしていました。ちょうどその頃、尼子家重臣の亀井秀綱が毛利家の家督相続の謀略に失敗し、尼子経久と毛利元就との対立が始まるころで、安芸国の国人衆を引き留めるために国人衆代表の毛利元就と尼子詮久は『義兄弟の契り』を交わしたとも云われております。
1532年に美作国(みまさかのくに)に侵攻しこれを平定すると、その勢いを借りて備前国にも侵攻していきます。1537年に尼子経久が正式に隠居し家督を24歳の尼子詮久に引き継ぎます。尼子詮久はなかなかの武将であり、大内領だった石見銀山を奪取したり因幡国を平定し播磨国へ侵攻!!!当時、備前・美作・播磨の守護大名だった赤松晴政に大勝し、1539年には赤松氏の龍野城を落城させ播磨国までもが尼子詮久の勢力拡大を進みます。
しかし、尼子詮久は京への上洛を目指していた途中、大内側にいた毛利元就の討伐を決定ます。叔父の尼子久幸が大反対するものの強行し、毛利元就が籠る吉田郡山城との戦いに突入します。
智将であり謀将である毛利元就に10倍近い兵力を向けますが惨敗による惨敗が続き・・・大内の援軍(陶晴賢)が到着すると尼子軍に総攻撃をかけ、叔父の尼子久幸は尼子詮久を守るために討死し、尼子詮久は夜に紛れて命からがら月山富田城に逃げ帰ります。その後は尼子家は徐々に勢力を亡くしていきます・・・1541年に尼子経久が亡くなってしまうと更なる求心力が落ち掛けますが、これまでの武力が認められ、同年に将軍 足利義晴(あしかがよしはる)から『晴』の字をもらい、尼子晴久に改名するなど、足利将軍の権威を利用し尼子氏の勢いを取り戻そうとします。大内氏が攻め立てた月山富田城の戦いをしのぎ、逆に反転して大内領や安芸国・備後国に攻め込むなど、従来の尼子晴久の強さを遺憾なく発揮します!!!
1560年に尼子晴久は月山富田城内で病死します!享年47歳!本当の急死でした。。。
尼子晴久は、出雲・隠岐・備前・備中・備後、美作・因幡・伯耆を支配下に置く守護大名となり、山陰山陽 11カ国のうち、8カ国の守護を兼任し、尼子家で歴代最大の勢力拡大を行い中国地方随一の大大名となったことは、尼子晴久の名将ぶりがわかるものだと思います。
尼子晴久の死去を知った毛利元就は『尼子晴久、欲しい名将を失った』っと好敵手の死を非常に悲しんだと云われています。
伝 尼子晴久の墓画像ギャラリー

『伝 尼子晴久の墓』の墓は案内板があり、その案内に従い山(藪)の中に進んでいます!





小さな墓石は尼子晴久の死に殉死した家臣の墓の様です。



伝 尼子晴久の墓です!!!


伝 尼子晴久の墓情報
年 代 | 1562年没 |
住 所 | 島根県安来市広瀬町富田 |
種 別 | 史跡 |
入場料 | 無料 |
営業時間 | – |
駐車場 | 無し(月山富田城駐車場など利用) |
伝 尼子晴久の墓へのアクセス
伝 尼子晴久の墓レビュー
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