江古田古戦場跡の感想
現在の哲学道公園から野方6丁目辺り(新青梅街道沿い一帯)では、太田道灌と豊島泰経らが激戦を繰り返した古戦場(江古田・沼袋の戦い)です!
トリガーは関東で28年間断続的に続いた内乱の享徳の乱(きょうとくのらん)で、古河公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を暗殺したことから始まり、室町幕府足利将軍と組んだ山内上杉氏・扇谷上杉氏が鎌倉幕府側の公方足利成氏と関東一円を巻き込んだ争いで、そんな長い乱の中の争いのひとつである『長尾景春の乱』で局地戦の場所になったのが、この『江古田古戦場跡』です!
『太田道灌状』には戦場となった場所が「江古田原」と記されており、のちにこれを下敷きに書かれのは「江古田原沼袋」となっているみたいで、一般的のは 『江古田原合戦』と呼ばれている様です。
もともと山内上杉氏の重臣だった長尾景春が古河公方足利成氏と組んで謀反を起こし、山内上杉顕定と扇谷上杉定正を急激し両上杉氏を敗走させます。その長尾景春の謀反に連呼して関東一円の国人衆が長尾景春の下に集まってきます。その奮起した国人衆のひとりに豊島泰経がいました。
豊島泰経は石神井城で弟の豊島泰明は練馬城で挙兵し、太田道灌の居城江戸城と河越城の間の江戸河越通路を遮断し動きを封じました。
1477年5月に太田道灌は江戸城を出発し練馬城に矢を撃ち込み周辺を放火し挑発をします。練馬城主の豊島泰明は石神井城の兄 豊島泰経と連絡を取り合い全軍で出陣し太田道灌を討つに向かいます。太田道灌も取って返し『江古田原』激突しました!!!(江古田原・沼袋の戦い)
戦いの結果は・・・太田道灌はあらかじめ江古田原付近に伏兵を潜ませていておいて、少人数で豊島軍側を挑発し江古田原の平場に誘き出し豊島氏側を急激し豊島泰明他、板橋氏や赤塚氏など150名が戦死する程の大敗してしまい、豊島泰経は石神井城へ敗走したそうです。
江古田古戦場跡画像ギャラリー
江古田古戦場跡は新青梅街道沿いの小さな公園になっています。






江古田古戦場跡情報
| 年 代 | 1477年 |
| 住 所 | 東京都中野区松が丘2丁目35 |
| 種 別 | 史跡 |
| 入場料 | 無料 |
| 営業時間 | – |
| 駐車場 | 無し |
江古田古戦場跡へのアクセス
江古田古戦場跡レビュー
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